丸山良明 来歴

丸山良明

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/11 06:32 UTC 版)

来歴

帝京高校出身では、2学年上には森下仁志、1学年上に日比威清野乙彦清野公彦兄弟、同学年に松波正信阿部敏之小峯隆幸時岡宏昌、2学年下には熱田眞がいた。2年生時に全国高等学校サッカー選手権大会で優勝、3年生時には主将を務めた。早稲田大学進学後も、4年生時に主将として関東大学リーグ優勝に貢献した。

大学卒業後、1997年横浜マリノス(現・横浜F・マリノス)へ加入。シーズン序盤に行われたヤマザキナビスコカップ予選では、日本代表招集のため井原正巳小村徳男が不在だったこともあり、全試合に出場した。しかしリーグ戦ではなかなか出番を得られなかったが、W杯最終予選の突然のレギュレーション変更に伴い、井原と小村が長期間チームを離脱したため、終盤に出場機会を増やした。しかし翌年以降は出場機会が減少し、2000年モンテディオ山形期限付き移籍。山形では中心選手として活躍したもののチームは低迷した。翌年に横浜FMへ復帰したが同年限りで契約非更新となった。

2002年アルビレックス新潟へ加入。中心選手として活躍し、2003年には副主将となりリーグ戦全試合にフル出場しチームのJ2優勝及びJ1昇格に貢献した。2004年以降も中心選手として活躍したが怪我が多くなり、2005年限りで契約非更新となった。新潟退団後は怪我の手術をし、リハビリをしながらJリーグ復帰に向けて調整を続けた。

2006年途中からベガルタ仙台の練習に参加し、7月より正式にチームに加入。怪我で離脱した時期を除けば、先発出場する機会が多かった。しかし翌年は更に怪我での離脱が増え、同年限りで契約非更新となった。

2008年北信越フットボールリーグAC長野パルセイロに加入。リーグ戦全試合に先発出場しチームの3年ぶりのリーグ優勝に貢献したものの、11月に行われた第32回全国地域サッカーリーグ決勝大会で敗退。同年12月に契約非更新が発表された。

2009年タイ・プレミアリーグチョンブリーFCへ加入。同年戦力外通告を受けた。

2010年にタイ・プレミアリーグ・ポートFC期限付き移籍した。2011年限りで現役を引退。引退後もタイに留まり、バンコク・グラスFCの育成コーチとして活動。[2]2014年よりバンコク・グラスFC傘下でリージョナルリーグ・ディヴィジョン2(実質3部)に所属するランシットの監督に就任した。

2012年6月5日、Jリーグのアジア戦略の一環として創設された「Jリーグ・アジアアンバサダー」に、木場昌雄とともに就任[3]

2020年7月28日、同日付でセレッソ大阪U-23の監督に就任した[4]


  1. ^ a b c d e 登録選手一覧表 Jリーグ 2007.12.07
  2. ^ 2013年2月26日付中日新聞3面「この人」
  3. ^ Jリーグ アジアアンバサダー就任決定のお知らせ - Jリーグ公式サイト、2012年6月5日
  4. ^ セレッソ大阪U-23 丸山良明新監督 就任のお知らせ』(プレスリリース)セレッソ大阪、2020年7月28日https://www.cerezo.jp/news/2020-07-28-14-02/2020年7月28日閲覧 


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