ヨーゼフ・ゲッベルス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/12 01:40 UTC 版)
人物
身体的特徴
身長は165cmだった[218]。幼少時に患った小児麻痺により左右で足の長さが異なる身体障害者となった。成人後も右足に整形用の靴を履いていた[219]。そのため歩行時は片方をややひきずる状態で歩いた。この事は戦時下で流行った「嘘は足を引きずって歩く」(本来は「嘘の足は短い」で、「嘘はすぐバレる」ということを意味していた)というジョークにもなった。
ゲッベルスの宣伝思想と行動:「鋼鉄のロマン主義」
ゲッベルスは「宣伝は精神的認識を伝える必要もなければ、おだやかだったり上品だったりする必要もない。成功に導くのがよい宣伝で、望んだ成功を外してしまうのが悪い宣伝である」「重要なのは宣伝水準ではなく、それが目的を達することである」とし[220]、その目的は「大衆の獲得」であり、「その目的に役立つなら、どんな手段でもよいのだ」と語っている[221]。彼は「日々の経験から効果的な手法を学んだ」としているが、彼が述べる宣伝概念にはヒトラーの『我が闘争』からの踏襲が見られる[221]。実際彼には宣伝手法自体やその出自にこだわりはなく、「ボルシェヴィスト(ボリシェヴィキ)からは宣伝の点で、大いに学ぶところがある」と評しただけでなく[222]、宣伝大臣として最初に映画界に伝達したことは「右翼の『戦艦ポチョムキン』を作るように」ということであった[223]。
ベルリンで宣伝活動を行っていた当時は、ベルリン市民を「群衆の集合」ととらえ、ベルリン市民の思考に合わせた奇抜で独創的な宣伝を多く行った。図案家のハンス・ヘルベルト・シュヴァイツァー(筆名・ミエルニル)はこの時期に効果的なプロパガンダプラカードを作成し、ゲッベルスから「神の恩寵」と賞賛されている[224]。
宣伝大臣となって最初の重大任務が国会の開会式であり、彼は荘重な演出を行ってヒンデンブルク大統領ら保守派をも感動させた(ポツダムの日)。さらに5月1日の「国民労働の日」祭典や非ドイツ的な図書の焚書、ベルリンオリンピックなどでは荘厳な演出をおこなったが、映画『意志の勝利』で有名な1934年のニュルンベルク党大会にはあまり熱心ではなく、日記にも記載していない[186]。彼が専門領域と考えていたのは「映画」であり、シナリオや俳優の起用などに深く介入した[219]。なお、「もちろん普通の国民は戦争を望まない。」に始まる、戦争遂行のためのプロパガンダ手法を端的に表した名言は、ゲッベルスではなく空軍大臣・国家元帥ヘルマン・ゲーリングの発言である。
1933年、ゲッベルスはドイツが第一次世界大戦に敗北したのは、物質的な欠陥からではなく、ドイツの精神的武器が火を吹かなかったからであるとし、ラジオによるドイツ国民の精神的動員の活用を説いた[225]。ゲッベルスは、近代技術は人々から魂を奪うが、ナチズムは技術を拒絶せず自覚的に肯定し、内面的に魂で満たし、ドイツ民族に奉仕するとし、近代の問題に英雄的に立ち向かう「鋼鉄のロマン主義」によってドイツを活気づけるとした[226]。
宣伝手法
この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。(2013年10月) |
ナチスといえば、ニュルンベルク党大会での演出やパレードなど華麗・華美な宣伝という印象が多く流布しているが、政治宣伝部門を担当していたゲッベルスが本当に望んでいた手法は全く別のものであった[疑問点 ]。 ニュルンベルク党大会については
- 党内で半ば盟友関係だったシュペーアがデザイン担当に深く関わっていた
- 最高指導者であるヒトラーの好みを考慮
- 当のゲッベルスがハリウッド映画の華美・壮観な演出に憧れ魅了されていた[疑問点 ]
等の事情があったと言われる。
ゲッベルス自身は、前述の政治イベント等とは違い「気楽に楽しめる娯楽の中に宣伝を刷り込ませ、相手に宣伝と気づかれないように宣伝を行う」「宣伝したい内容を直接キャッチフレーズ化して強調・連呼せず、心の中で思っているであろう不満・疑問・欲望を遠まわしに刺激し暴発させる」「もっとも速度の遅い船に船団全体の速度を合わせる護送船団の如く、知識レベルの低い階層に合わせた宣伝を心掛ける」を政治宣伝のあるべき姿と心掛けていた。これらの手法・考えは、当時のドイツやソ連、そして後年幾つか登場する全体主義国家(他、カルト団体など)よりも、むしろ民主主義国家(政治だけでなく商業でも)で本領を発揮し易いもので、事実、ナチスドイツを産み育てたヴァイマル共和政ヴァイマル憲法は当時の世界の中で最高水準の民主制制度を備えていた。マインドコントロール#発祥も参照の事。
壮大な規模の大パレードやマスゲームで優越感をくすぐり、攻撃対象を痛烈に罵倒する宣伝は支持者への即効性が望める反面、ある程度以上の知性を持つ大衆、或は外国から畏怖や違和感を抱かせる逆宣伝効果が多大にある(敵対勢力に簡単に逆用されてしまう)事をゲッベルスは理解し始めていた[いつ?]。
大手映画会社が作成した映画『ヒトラー青年クヴェックス』(普段から生真面目過ぎて仲間から馬鹿にされているクヴェックスという少年が、生死をかけて潜伏スパイを摘発し、最後に少年団仲間に看取られながら通りの真ん中で最期を遂げる内容)を試写して「あからさまに政治宣伝色が強すぎる」と激怒し、お蔵入りさせるといった出来事まで起きている[疑問点 ]。
レニ・リーフェンシュタールとの関係
ヒトラーのお気に入りの映画監督レニ・リーフェンシュタールとゲッベルスの最初の接点は、彼女の出演作『死の銀嶺』を1929年12月1日、当時の恋人エリカと観た時だった。この時ゲッベルスは日記に「とても美しい」「すばらしい娘!」と賞賛の言葉を残している[227]。
リーフェンシュタールが1933年にヒトラーの指名によりナチ党大会映画を撮ることになった(『信念の勝利』)。リーフェンシュタールは、当初ゲッベルスを「話の判る知性溢れる人」と好感を抱いていたが、彼女が芸術性を第一に考えて製作したプロパガンダ映画作品のほとんどはまさに前述のゲッベルスのポリシーに反するものばかりで、やがては国内映画制作の指導指揮権一部競合を巡る両者の根深い対立へと繋がっていく[228][疑問点 ]。
リーフェンシュタールは第二次世界大戦戦後に書かれた回顧録において、1934年のニュルンベルク党大会の撮影を行っていた彼女とスタッフをゲッベルスのスタッフが妨害したという記述を残している。しかし実際そのような行為が行われたという記録は彼女の回顧録以外に存在しない。また完成した映画『意志の勝利』を見たゲッベルスは「国家政治的・芸術的に特に価値あり」と認め、「国民の映画賞」をこの映画に授けて顕彰した[187]。
またリーフェンシュタールは回顧録において、ベルリンオリンピックの時にもゲッベルスが「なし得る限りの妨害」をし、ヒトラーがオリンピック映画の管轄を宣伝省から直轄の部署に移動させたと記述しているが、実際にはそのような措置はとられていない[229]。
映画愛好家
ゲッベルスは1920年代から映画館に通っていた映画愛好家だった。映画批評家としての彼は必ずしも国家社会主義イデオロギーの色眼鏡で映画批評を行わなかった。特にナチ党が政権を掌握する前の頃には党の敵が作った作品でも良い物は良いと評価することが多かった。例えば彼は『ニーベルンゲンの歌』と『戦艦ポチョムキン』のファンだったが、その監督であるラングとエイゼンシュテインはどちらもユダヤ人だった。また『戦艦ポチョムキン』はソ連の共産主義プロパガンダ映画だが、それもゲッベルスにとっては同映画への評価を下げる材料とはならなかった[230]。宣伝大臣となった後、ゲッベルスは国家社会主義版『戦艦ポチョムキン』を作ることを公然と要求して人々を驚かせた[231]。
さらにドイツ映画より、イギリスとフランスの映画を好み、英仏と開戦した後にすらこっそりと自分専用の映写室で英仏の映画を見ていた。一方アメリカ映画への評価は低く、ハリウッド映画は「教育上宜しくない」と結論している[230]。ゲッベルスはハリウッドの極端に戯画化する傾向を嫌った。ハリウッドの反ナチ映画『私はナチのスパイだった』を見た時、ゲッベルスは日ごろから自分が高尚な趣味になるよう気を使っている宣伝省や執務室の飾りつけが、映画の中ではナチ党のハーケンクロイツだらけの趣味の悪い建物に戯画化されていたことについてアメリカの通信員に苦言を呈した[232]。
注釈
出典
- ^ Miller & Schulz 2012, p. 339.
- ^ Miller & Schulz 2012, p. 290.
- ^ Miller & Schulz 2012, p. 284.
- ^ Miller & Schulz 2012, p. 283.
- ^ Miller & Schulz 2012, p. 271, リース 1971, p. 15
- ^ ゲッベルス 1974, p. 10.
- ^ a b リース 1971, p. 15.
- ^ マンヴェル & フレンケル 1962, p. 12.
- ^ Miller & Schulz 2012, p. 345.
- ^ マンヴェル & フレンケル 1962, p. 15.
- ^ マンヴェル & フレンケル 1962, p. 11-12.
- ^ a b c クノップ 2001, p. 34.
- ^ マンヴェル & フレンケル 1962, p. 13.
- ^ マンヴェル & フレンケル 1962, p. 14.
- ^ マンヴェル & フレンケル 1962, p. 14-15, リース 1971, p. 17-18
- ^ Thacker 2009, p. 13.
- ^ 平井正 1991, pp. 7.
- ^ マンヴェル & フレンケル 1962, p. 16.
- ^ マンヴェル & フレンケル 1962, p. 16-17.
- ^ マンヴェル & フレンケル 1962, p. 17.
- ^ マンヴェル & フレンケル 1962, p. 20.
- ^ マンヴェル & フレンケル 1962, p. 21-23.
- ^ マンヴェル & フレンケル 1962, p. 24.
- ^ リース 1971, p. 20, Miller & Schulz 2012, p. 272
- ^ クノップ 2001, p. 36.
- ^ マンヴェル & フレンケル 1962, p. 24, リース 1971, p. 20
- ^ リース 1971, p. 21-22.
- ^ リース 1971, p. 20.
- ^ a b クノップ 2001, p. 37.
- ^ クノップ 2001, p. 29.
- ^ a b c クノップ 2001, p. 38.
- ^ リース 1971, p. 29.
- ^ マンヴェル & フレンケル 1962, p. 33.
- ^ マンヴェル & フレンケル 1962, p. 37.
- ^ リース 1971, p. 34, マンヴェル & フレンケル 1962, p. 38
- ^ Miller & Schulz 2012, p. 274.
- ^ リース 1971, p. 34-35.
- ^ マンヴェル & フレンケル 1962, p. 38.
- ^ Thacker 2009, p. 49.
- ^ 平井正 1991, pp. 28.
- ^ マンヴェル & フレンケル 1962, p. 39-40.
- ^ Miller & Schulz 2012, p. 271.
- ^ ゲッベルス 1974, p. 20.
- ^ マンヴェル & フレンケル 1962, p. 39.
- ^ 平井正 1991, pp. 32.
- ^ 桧山良昭 1976, p. 96, Miller & Schulz 2012, p. 274
- ^ 桧山良昭 1976, p. 96.
- ^ モムゼン 2001, p. 297.
- ^ 桧山良昭 1976, p. 98.
- ^ Thacker,p.55
- ^ a b c リース 1971, p. 37.
- ^ リース 1971, p. 38.
- ^ 平井正 1991, pp. 35.
- ^ ゲッベルス 1974, p. 46.
- ^ Thacker,p.58
- ^ 平井正 1991, pp. 36.
- ^ 平井正 1991, pp. 38.
- ^ 桧山良昭 1976, p. 98-99.
- ^ a b トーランド 1979a, p. 245.
- ^ a b マンヴェル & フレンケル 1962, p. 50.
- ^ a b マンヴェル & フレンケル 1962, p. 51.
- ^ フェスト 1975a, p. 313.
- ^ リース 1971, p. 43.
- ^ フェスト 1975a, p. 314.
- ^ 平井正 1991, pp. 42.
- ^ ゲッベルス 1974, p. 63.
- ^ ゲッベルス 1974, p. 66.
- ^ リース 1971, p. 44.
- ^ ゲッベルス 1974, p. 70.
- ^ リース 1971, p. 45.
- ^ ゲッベルス 1974, p. 80.
- ^ マンヴェル & フレンケル 1962, p. 54.
- ^ 平井正 1991, pp. 45.
- ^ マンヴェル & フレンケル 1962, p. 57-58.
- ^ 平井正 1991, pp. 51.
- ^ クノップ 2001, p. 42.
- ^ 平井正 1991, pp. 57.
- ^ マンヴェル & フレンケル 1962, p. 63.
- ^ 平井正 1991, pp. 58.
- ^ a b マンヴェル & フレンケル 1962, p. 64.
- ^ a b マンヴェル & フレンケル 1962, p. 65.
- ^ a b 平井正 1991, pp. 63.
- ^ クノップ 2001, p. 45.
- ^ a b マンヴェル & フレンケル 1962, p. 68.
- ^ リース 1971, p. 59.
- ^ 阿部良男 2001, p. 142.
- ^ 阿部良男 2001, p. 143.
- ^ マンヴェル & フレンケル 1962, p. 69.
- ^ a b 阿部良男 2001, p. 144.
- ^ マンヴェル & フレンケル 1962, p. 70.
- ^ リース 1971, p. 67.
- ^ 平井正 1991, pp. 77.
- ^ リース 1971, p. 68.
- ^ リース 1971, p. 73.
- ^ a b リース 1971, p. 147.
- ^ フェスト 1975a, p. 338.
- ^ トーランド 1979a, p. 260-261.
- ^ トーランド 1979a, p. 265.
- ^ a b 阿部良男 2001, p. 152.
- ^ リース 1971, p. 69.
- ^ フェスト 1975a, p. 357.
- ^ a b リース 1971, p. 77.
- ^ リース 1971, p. 78.
- ^ a b c リース 1971, p. 79.
- ^ マンヴェル & フレンケル 1962, p. 77.
- ^ a b マンヴェル & フレンケル 1962, p. 74.
- ^ リース 1971, p. 76.
- ^ a b 平井正 1991, pp. 97.
- ^ 平井正 1991, pp. 99.
- ^ フェスト 1975a, p. 370.
- ^ 阿部良男 2001, p. 165-166.
- ^ マンヴェル & フレンケル 1962, p. 75.
- ^ 阿部良男 2001, p. 166.
- ^ フェスト 1975a, p. 366.
- ^ 阿部良男 2001, p. 167.
- ^ a b 阿部良男 2001, p. 168-169.
- ^ a b プリダム 1975, p. 157.
- ^ a b プリダム 1975, p. 158.
- ^ モムゼン 2001, p. 308-309.
- ^ リース 1971, p. 80.
- ^ a b リース 1971, p. 81.
- ^ 阿部良男 2001, p. 170.
- ^ 阿部良男 2001, p. 175.
- ^ 阿部良男 2001, p. 175-176.
- ^ マンヴェル & フレンケル 1962, p. 79-80.
- ^ a b リース 1971, p. 90.
- ^ マンヴェル & フレンケル 1962, p. 84.
- ^ リース 1971, p. 91-92.
- ^ 阿部良男 2001, p. 193.
- ^ リース 1971, p. 91.
- ^ a b リース 1971, p. 92.
- ^ 阿部良男 2001, p. 194-195.
- ^ モムゼン 2001, p. 389.
- ^ フェスト 1975a, p. 433.
- ^ 阿部良男 2001, p. 195-196.
- ^ 阿部良男 2001, p. 197.
- ^ フェスト 1975a, p. 435.
- ^ プリダム 1975, p. 325-326.
- ^ a b リース 1971, p. 96.
- ^ リース 1971, p. 95.
- ^ a b リース 1971, p. 98.
- ^ 阿部良男 2001, p. 202-203.
- ^ a b フェスト 1975a, p. 445.
- ^ 桧山良昭 1976, p. 227.
- ^ リース 1971, p. 99.
- ^ a b リース 1971, p. 100.
- ^ a b c 阿部良男 2001, p. 204.
- ^ 林健太郎 1963, p. 190.
- ^ a b フェスト 1975a, p. 452.
- ^ 阿部良男 2001, p. 205-206.
- ^ a b c リース 1971, p. 101.
- ^ 阿部良男 2001, p. 207.
- ^ a b c d リース 1971, p. 102.
- ^ フェスト 1975a, p. 462.
- ^ 阿部良男 2001, p. 212.
- ^ リース 1971, p. 103-104.
- ^ a b 阿部良男 2001, p. 213.
- ^ a b フェスト 1975a, p. 466-467.
- ^ a b 桧山良昭 1976, p. 257-258.
- ^ a b c リース 1971, p. 109.
- ^ 阿部良男 2001, p. 220-221.
- ^ リース 1971, p. 107.
- ^ 阿部良男 2001, p. 222.
- ^ a b マンヴェル & フレンケル 1962, p. 100.
- ^ a b リース 1971, p. 113.
- ^ マンヴェル & フレンケル 1962, p. 135.
- ^ フェスト 1975b, p. 27.
- ^ トーランド 1979a, p. 349.
- ^ マンヴェル & フレンケル 1962, p. 103.
- ^ a b リース 1971, p. 119-120.
- ^ マンヴェル & フレンケル 1962, p. 109.
- ^ 宮田 1994, p. 55-56.
- ^ 阿部良男 2001, p. 248.
- ^ 阿部良男 2001, p. 249.
- ^ a b マンヴェル & フレンケル 1962, p. 106.
- ^ 阿部良男 2001, p. 252.
- ^ 宮田1994, pp. 54–55.
- ^ 阿部良男 2001, p. 253.
- ^ マンヴェル & フレンケル 1962, p. 113.
- ^ リース 1971, p. 132.
- ^ マンヴェル & フレンケル 1962, p. 114.
- ^ 平井正 1991, p. 162.
- ^ リース 1971, p. 134.
- ^ マンヴェル & フレンケル 1962, p. 117.
- ^ 阿部良男 2001, p. 284.
- ^ a b 平井正 1991, p. 164.
- ^ a b 平井正 1991, p. 167-168.
- ^ a b リース 1971, p. 139.
- ^ 阿部良男 2001, p. 322.
- ^ リース 1971, p. 140.
- ^ 平井正 1991, p. 178.
- ^ 平井正 1991, p. 181.
- ^ 阿部良男 2001, p. 343.
- ^ 阿部良男 2001, p. 394.
- ^ リース 1971, p. 147-148.
- ^ 平井正 1991, p. 202.
- ^ a b リース 1971, p. 174.
- ^ a b マンヴェル & フレンケル 1962, p. 152.
- ^ 平井正 1991, p. 206.
- ^ 平井正 1991, p. 209.
- ^ 平井『ゲッベルス』p.216
- ^ 平井『ゲッベルス』p.222
- ^ 平井正 1991, pp. 223.
- ^ マンヴェル、フレンケル『第三帝国と宣伝』p.198
- ^ カーショー(2021年)、80頁。
- ^ カーショー(2021年)、81頁。
- ^ 平井正 1991, pp. 236.
- ^ a b 平井正 1991, pp. 239–240.
- ^ 平井『ゲッベルス』p.240
- ^ 平井正 1991, pp. 241.
- ^ 平井正 1991, pp. 244–245.
- ^ 平井正 1991, pp. 244.
- ^ 平井正 1991, pp. 247.
- ^ 平井正 1991, pp. 248.
- ^ “ヒトラー側近ゲッベルスの大邸宅、ベルリン市が売却へ”. asahi.com (朝日新聞社). (2007年1月30日). オリジナルの2015年9月24日時点におけるアーカイブ。 2019年2月12日閲覧。
- ^ “Bogensee wird jetzt weltweit angeboten”. ベルリーナー・ツァイトゥング. (2008年2月21日). オリジナルの2014年1月9日時点におけるアーカイブ。 2019年2月12日閲覧。
- ^ “Grundstücksveräußerungen In München steht ein Stück Berlin zum Verkauf”. Berliner Zeitung. (2013年10月4日) 2019年2月12日閲覧。
- ^ Rothmeier, Ines (2009). Analyse Rhetorischer Stilmittel Der Faschistischen Rede Am Beispiel Der Sportpalastrede. Grin Verlag. p. 6. ISBN 978-3-6402-8368-2
- ^ a b 平井正 1991, p. 184.
- ^ 平井正 1991, p. 74.
- ^ a b 平井正 1991, p. 61.
- ^ 平井正 1991, p. 76.
- ^ 平井正 1991, p. 84.
- ^ 平井正 1991, p. 62-63.
- ^ ハーフ2010,pp.337-344.
- ^ ハーフ2010,pp.345-9.
- ^ 平井正 1991, p. 93.
- ^ これらについては、1992年にBBCが製作したドキュメンタリー映像作品「メディアと権力」第一部『大衆操作の天才・ゲッベルス』作品を紹介するページ[リンク切れ]で詳しい
- ^ 平井正 1991, p. 170.
- ^ a b リース 1971, p. 152.
- ^ メラー 2009, p. 62.
- ^ マンヴェル & フレンケル 1962, p. 128.
- ^ a b 前川道介 (1995-06-30), 炎と闇の帝国ゲッベルスとその妻マクダ, 白水社, pp. 119, ISBN 4560028893
- ^ Goebbels, Joseph (1934). Vom Kaiserhof zur Reichskanzlei. Eine historische Darstellung in Tagebuchblättern. München: Franz Eher Nachf.
- ^ ゲッベルス 著、佐々木能理男 訳『勝利の日記』第一書房、1941年。
- ^ 平井正 1991, pp. 116.
- ^ 平井正 1991, pp. 251.
- ^ 平井正 1991, p. 224.
- ^ Staff, Reuters (2012年9月25日). “諏訪根自子さんが死去 世界的バイオリニスト”. 日本経済新聞 2021年5月24日閲覧。
- ^ SAPIO2017年7月号p63 小学館
- ^ 上野陽子 要点を絞り込み「知性」よりも「感情」に訴えかけよ プレジデントオンライン
- ^ a b ナチス政権宣伝相ゲッペルスの秘書だった106歳独女性死亡 最後の生き証人として伝えたかったこと - シュピッツナーゲル典子 2017/3/25(土) 17:30 Yahoo!ニュース
- ^ ナチス宣伝相ゲッペルスの秘書、106歳で死去 2017年1月30日 22:41 - フランス通信社
固有名詞の分類
ナチ党員 |
ヴァルデマール・クリンゲルヘーファー カール・エルンスト ヨーゼフ・ゲッベルス オイゲン・シュタイムレ アントン・ドレクスラー |
ナチ党員 |
ヴァルデマール・クリンゲルヘーファー カール・エルンスト ヨーゼフ・ゲッベルス オイゲン・シュタイムレ アントン・ドレクスラー |
ヴァイマル共和国の政治家 |
パウル・レーベ フランツ・フォン・パーペン ヨーゼフ・ゲッベルス アントン・ドレクスラー コンスタンティン・フェーレンバッハ |
ドイツ第三帝国期の政治家 |
ヴィクトール・ルッツェ フランツ・フォン・パーペン ヨーゼフ・ゲッベルス アントン・ドレクスラー ハンス・ルター |
ドイツの首相 |
マクシミリアン・フォン・バーデン フランツ・フォン・パーペン ヨーゼフ・ゲッベルス コンスタンティン・フェーレンバッハ ハンス・ルター |
大管区指導者 |
グスタフ・ジーモン ヨーゼフ・テアボーフェン ヨーゼフ・ゲッベルス グレゴール・シュトラッサー パウル・ヒンクラー |
- ヨーゼフ・ゲッベルスのページへのリンク