モンゴルの高麗侵攻 モンゴル支配からの脱却と高麗滅亡

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モンゴルの高麗侵攻

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/04 21:11 UTC 版)

モンゴル支配からの脱却と高麗滅亡

1350年代、元朝の衰えが顕著となると、恭愍王は親元勢力を排除し、元の外戚として権勢を振るっていた奇氏を討伐。崔瑩(チェ・ヨン)や李成桂(イ・ソンゲ)らの武人を登用して1356年に元から高麗旧領土を奪い返し、ようやくモンゴル支配から脱して独立した。そのころ、大陸で紅巾の乱が発生し、紅巾軍が朝鮮半島にも到来するが高麗軍は撃退に成功する。また同時期に倭寇の襲来にも高麗は悩まされており、1389年には朴葳(パク・ウィ)が対馬征伐を行なっている(高麗・李氏朝鮮の対馬侵攻)。

この過程で力を得た李成桂によって1392年李氏朝鮮が成立し、高麗王朝は滅亡した。

高麗のモンゴル侵攻認識

A

君是天也,父母也,方殷憂大戚如此,而不於天與父母,而又於何處訴之耶,伏望皇帝陛下,推天地父母之慈,諒小邦靡他之意,敕令大軍,回轅返旆,永護小國,則臣更努力竭誠,歳輸土物,用表丹悃,益祝皇帝千萬歳壽,是臣之志也。伏惟陛下,小加憐焉。

君主は天であり、父母であります。……伏して皇帝陛下にお願い申し上げたいのは、天地父母の慈しみをもって小邦に二心がないことをご理解くださり、軍隊を引き返して末永く小国を保護してくださいますならば、私どもはさらに努力して誠を尽くし、毎年土産物をお送りして赤誠の心をあらわし、ますます皇帝のお命が永遠に続くことを祝します、これが私どもの志でございます[30] — 高麗史、巻第二十三、高宗十九(一二三一)年冬十二月

B

國書曰:我國臣事蒙古大國,稟正朔有年矣,皇帝仁明,以天下爲一家,視遠如邇,日月所照,咸仰其德。今欲通好於貴國而詔寡人云,日本與高麗爲隣,典章政治有足嘉者,漢唐而下屢通中國,故特遣書以往,勿以風濤阻險爲辭。其旨嚴切,茲不獲已,遣某官某奉皇帝書前去。貴國之通好中國,無代無之。況今皇帝之欲通好貴國者,非利其貢獻,蓋欲以無外之名高於天下耳,若得貴國之通好,必厚待之。其遣一介之士以往觀之,何如也,貴國商酌焉。

わが国は蒙古大国に臣事することがもう何年にもわたっています。皇帝の仁徳は明らかであり、天下を一家とみなして遠近の差をつけることもなく、日月が照らす所はみんなその徳を仰いでいます[30] — 高麗史、世家第二十六、元宗八(一二六六)年八月

C

陛下降以公主,撫以聖恩,小邦之民,方有聊生之望,然茶丘在焉,臣之爲國,不亦難哉。如茶丘者,只宜理會軍事,至於國家之事,皆欲擅斷,其置達魯花赤於南方,亦非臣所知也。上國必欲置軍於小邦,寧以韃靼漢兒軍,無論多小而遣之,如茶丘之軍,惟望召還。

陛下が皇女を降され、聖恩によって撫育してくださることによって、(わたしども)小邦の民はまさに安心して生きる望みがあります。……上国がどうしても軍隊を小邦に設置したいとお望みならば、むしろ韃靼か漢人の若者の軍隊を多少を問わず派遣されて頂くことを願っています[30] — 高麗史、世家第二十八、忠烈王(一二七七)四年六月

D

弊邑本海外之小邦也,自歴世以來,必行事大之禮,然後能保有其國家,故頃嘗臣事于大金。及金國鼎逸,然後朝貢之禮始廢矣。越丙子歳,契丹大擧兵,闌入我境,橫行肆暴。至己卯,我大國遣帥河稱,扎臘領兵來救,一掃其類。小國以蒙賜不貲,講投拜之禮,遂向天盟告,以萬世和好爲約,因請歳進貢賦所便。

弊邑はもともと海外の小邦であります。歴史が始まって以来、必ず事大の礼を行い、そうして国家を保ってきました。それゆえ、近頃かつて大金に臣事していましたが、金国が敗亡するに及んで初めて朝貢の礼を取りやめました。(しかし)丙子の年(一二一六)を過ぎると、契丹が大挙派兵してわが境域内に乱入して好き勝手暴行しました。己卯(一二一九)になると、わが大国(元)が軍帥の河稱と扎臘を派遣して領兵が助けに来てくださり、奴らを一掃してくださいました。小国にとってその大恩はつぐなえないほどであります[30] — 高麗史、世家第二十三、高宗十九(一二三一)年冬十一月

E

夫主國山川,依人而行者,神之道也,則所寓之國,所依之人,能不哀矜而終始保護耶,本朝自昔三韓,鼎峙爭疆,萬姓塗炭,我龍祖應期而作,俯循人望,擧義一唱,四方響臻,、自然歸順。然當草昧閒,或有不軌之徒,嘯聚蜂起,而以尺劒,掃淸三土,合爲一家。然後,聖聖相繼,代代相承,以至于今日矣。三百餘載之閒,時數使然,災變屢興,卽能戡定者,全是我諸神僉力潛扶,保安社稷之所致也。越辛卯歳以來,不幸爲蒙人所寇,國家禍亂,不可殫言。

本朝は三韓の昔から、三方に向かって境界を争い、あらゆる一族が塗炭の苦しみを味わい、わが王でさえも時には味わい、伏して人民の望みにしたがって義兵を起こそうと唱えると、四方が声に応じて集まり、自然に帰順しました。しかし、混乱した時にもし謀反の徒がいれば、号令によって人を集めて蜂起し、剣によって三土を掃討し、合わせて一家にしてきました[30] — 高麗史、世家第二十四、高宗四十一(一二五三)年冬十月

モンゴル皇帝に差し出す公式文書「」(A)では、モンゴル皇帝に対して「」や「父母」と同様の絶対的服従を表明しており、朝鮮から日本への国書(B)及び忠烈王のモンゴル皇帝への奏上文C)では、モンゴルを「大国」「上国」、それに対して自国を「小邦」と表現しており、モンゴル皇帝に陳情した書面(D)では、高麗は「海外の小邦」であり、大国に対して常に「事大の礼」を行って臣事し、「朝貢の礼」を行ってきたことを認める一方、宗廟への祈告文(E)では、塗炭の苦しみを味わうような侵略に対しては都度「義兵」を起こして抵抗し、国内の謀反勢力を掃討しながら統一を保ってきたことが力説されている[30]

森平雅彦は、「高麗がモンゴルに送ったでは、モンゴル官人に対して尊官・貴人に対する尊敬である『閣下』を用い、モンゴル官人側の指示・命令についても尊官・貴人のおおせを意味する『鈞旨』を用いる一方、自国のことは『小国』『小邦』『弊邑』と卑称している。したがって、基本的には相手を上にたてた形式で書かれたものとみて大過なかろう」と述べており[31]、蒙古(モンゴル)を「天」「父母」「大国」「上国」と表現しているのは、高麗のそれまでの対中国認識をそのままモンゴルに当てはめ、モンゴルを中国皇帝=「天」に代置するものとして認識していたことを示し、自国(高麗)を「弊邑」「小邦」と表現しながらも、侵略に対しては「義兵」によって防御し、謀反の徒に対しては「尺剣」によって掃討して統一を保ってきたことが強調されるのは、三国を統一したことが高麗のナショナル・アイデンティティとなっていることをうかがわせる[32]


  1. ^ 回数の数え方は研究者によって異なり、7度や9度と言われることもある。
  2. ^ 杉山1996、107頁。村井1999、100頁。
  3. ^ 『元史高麗伝』「[太祖]十四年九月,皇太弟、国王及元帥合臣、副元帥札剌等各以書遣宣差大使慶都忽思等十人趣其入貢,尋以方物進。十五年九月(中略)以皇太弟、国王書趣之,仍進方物。十八年八月,宣差山朮等十二人復以皇太弟、国王書趣其貢献。」
  4. ^ 『元史』巻2 太宗本紀「[太宗三年秋八月]是月、以高麗殺使者、命撒禮塔率師討之、取四十餘城。」
  5. ^ 『元史』巻208 高麗伝「[太祖十九年]十二月、又使焉、盜殺之于途、自是連七歳絶信使矣。 太宗三年八月、命撒禮塔征其國、國人洪福源迎降于軍、得福源所率編民千五百戸、旁近州郡亦有來師者。」
  6. ^ 『元史』巻208 高麗伝「太宗三年八月、命撒禮塔征其國、國人洪福源迎降于軍、得福源所率編民千五百戶、旁近州郡亦有來師者。撒禮塔即與福源攻未附州郡、又使阿兒禿福源抵王京、招其主王皞遣其弟懷安公王侹請和、許之。置京、府、縣達魯花赤七十二人監之、遂班師。」
  7. ^ 世界全史、312頁。
  8. ^ 村井1999、14頁。
  9. ^ 『高麗史』巻129 列伝43 叛逆3 崔忠献「[高宗]三十九年、李峴奉使如蒙古、沆謂峴曰:『彼若問出陸、宜荅以今年六月。(中略)帝乃留峴、遂遣多可土等密勅曰『汝到彼國、王迎于陸則、雖百姓未出猶可也。不然、速回。待汝來、當發兵致討伐…』」
  10. ^ 『高麗史』巻24 高宗世家3 高宗三十九年秋七月戊戌(十六日)条「戊戌、蒙古使多可阿土等三十七人來帝密勅多可等曰:「汝到彼國、王出迎于陸、則雖百姓未出、猶可也。不然則待、汝來當發兵致討。」多可等至王、遣新安公佺、出迎之請蒙使入梯浦館。王乃出見宴未罷、多可等以王不從帝命怒而還昇天館。」/『高麗史節要』巻17 高宗三十九年七月条「秋七月、蒙古遣多可阿土等三十七人、來審出陸之状。初李峴之如蒙古也。崔沆謂曰『若詰出陸、宜荅以今年六月』。乃出峴未至蒙古、東亰路官人阿母侃通事洪福源等請發兵伐之。帝已許之及峴至。帝問『爾國出陸否』。對如沆言。帝又問『留爾等別遣使審視。否則如何』。對曰『臣於正月發程、已於昇天府白馬山營宮室城郭。臣敢妄對』。對帝乃留峴。遂遣多可土等来密勅曰『汝到彼國、王迎于陸則、雖百姓未出猶可也。不然、速回。待汝來、當發兵致討伐』。峴書状官張鎰随多可能来密知之具白王。王以問沆對曰『大駕不宜輕出江』。公卿皆希沆意執不可。王從之遣新安公佺、出江迎之請蒙使入梯浦館。王乃出見宴未罷、多可等以王不從帝命怒而還昇天館。時人謂『沆以淺智誤國大事、蒙兵必至矣』。」
  11. ^ 『高麗史』
  12. ^ 村井1999、105頁。
  13. ^ 関周一 編『日朝関係史』吉川弘文館、2017年2月7日、103-104頁。ISBN 978-4642083089 
  14. ^ 『元史』巻3 憲宗本紀 憲宗三年癸丑春正月条「三年癸丑春正月、汪田哥修治利州、且屯田、蜀人莫敢侵軼。帝獵于怯蹇叉罕之地。諸王也古以怨襲諸王塔剌兒營。帝遂會諸王于斡難河北、賜予甚厚。罷也古征高麗兵、以札剌兒帶為征東元帥。遣必闍別兒哥括斡羅思戸口。」
  15. ^ 『高麗史』巻24 高宗世家3 高宗四十一年条「是歳、蒙兵所虜男女、無慮二十萬六千八百餘人、殺戮者不可勝計。所經州郡、皆爲煨燼、自有蒙兵之亂、未有甚於此也。」/同高宗四十二年夏四月条「是月道路始通。兵荒以來、骸骨蔽野、被虜人民逃入京城者、絡繹不絶。都兵馬使、日給米一升救之然死者無筭」 村井1999、105頁。
  16. ^ 村井1999、93-94頁。
  17. ^ 村井1999、106頁。
  18. ^ 『元史』巻4 世祖本紀 中統元年6月 条「高麗國王王倎遣其子永安公僖、判司宰事韓即來賀即位、以國王封冊、王印及虎符賜之。」/『元史』巻208 高麗伝「(中統元年)六月、倎遣其子永安公僖、判司宰事韓即入賀即位、以國王封冊、王印及虎符 賜之。是月、又下詔撫諭之。」、杉山1996、112-113頁。
  19. ^ 『元史高麗伝』
  20. ^ 杉山1996、113-117頁。
  21. ^ 元史高麗伝。杉山1996、114-115頁。
  22. ^ 杉山1996、115-116頁。
  23. ^ 村井1999、111-114頁。
  24. ^ 程尼娜『元代朝鮮半島征東行省研究』
  25. ^ 『征東行省新論』
  26. ^ 元史』巻108 表3「諸王表」。『元史』世祖本紀によると「駙馬高麗王」に封じられたのは至元11年7月癸巳(1274年8月22日)
  27. ^ 元史』巻8 世祖本紀5「[至元11年5月]丙申(1274年6月26日)、以皇女忽都魯堅迷失下嫁高麗世子王諶。」/『元史』巻109 表4 諸公主表「高麗公主位:齊國大長公主忽都魯堅迷失、世祖之女、適高麗王諶、即王昛也。」
  28. ^ 『元史』巻91 志41上 百官志7「征東等処行中書省。至元二十年、以征日本国、命高麗王置省、典軍興之務、師還而罷。大特が三年、復立行省、以中国之法治之。既而王言其非便、詔罷行省、従其俗。至治元年復置、以高麗王兼領丞相、得自奏選属官、治瀋陽、統有二府、一司、五道。」
  29. ^ 森平雅彦『モンゴル帝国の覇権と朝鮮半島』
  30. ^ a b c d e f 井上厚史「朝鮮と日本の自他認識 : 13〜14世紀の「蒙古」観と自己認識の変容」『北東アジア研究』別冊3、島根県立大学北東アジア地域研究センター、2017年9月、35頁、ISSN 1346-3810 
  31. ^ 森平雅彦『モンゴル覇権下の高麗―帝国秩序と王国の対応』名古屋大学出版会、2013年11月30日、213頁。ISBN 978-4815807535 
  32. ^ 井上厚史「朝鮮と日本の自他認識 : 13〜14世紀の「蒙古」観と自己認識の変容」『北東アジア研究』別冊3、島根県立大学北東アジア地域研究センター、2017年9月、36頁、ISSN 1346-3810 





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