ホメーロス ホメーロスは歴史家か?

ホメーロス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/19 08:08 UTC 版)

ホメーロスは歴史家か?

古代の作家たちは ホメーロスが本当に存在した出来事を歌ったのであり、 トロイア戦争は本当に起きたのだと考えていた。彼らはオデュッセウスがアオイドスのデーモドコスにかけた言葉を信じていた[訳語疑問点]――

アカイア軍の運命とアカイア軍の行動と、
その成功と受難とをいみじく君は述べ歌ふ、
さながら之を見し如く、或は他より聞く如く。

—『オデュッセイア』第8歌489-491 土井晩翠訳

19世紀に、ハインリヒ・シュリーマン小アジアで発掘調査を実施したのも叙事詩に描かれた場所を再発見するためであった。シュリーマンがまずトロイアと呼ばれる都市を、それからミケーネの諸都市を発見した時、これでホメーロスの物語の真実性が証明されたと考えられた。アガメムノーンの顔を象ったマスク、大アイアースの楯、ネストールの杯などが次々と発見されたと思われ、彼らもまた実在したと考えられた。アオイドスによって描かれた社会をミケーネ文明と同一視したのである。

この文明に関する諸々の発見(とりわけ線文字Bの解読)により、この説は急速に疑問視されるようになった。アカイアの社会は、戦士たちによる国体なき貴族政治というよりもメソポタミア文明に近い、行政・官僚支配によるものだった。ジャクリーヌ・ド・ロミリフランス語版はこう説明している――「最近発見された諸文書と、詩に書かれた内容との間には、『ローランの歌』と、ローランの時代の公正証書との間にあるのと変わらぬぐらいの繋がりしかない。」[34]

モーゼス・フィンリーは『オデュッセイアの世界』(1969) において、描かれている社会は、多少の時代錯誤はあるにせよ、本当に存在したのだと断言した――ミケーネ文明と、紀元前8世紀の都市国家の時代との中間に位置する紀元前10-9世紀頃の「暗黒時代」だったのである。フィンリーは「暗黒時代とホメーロスの詩」(『古代ギリシア』、1971年)でこう書いている――

吟遊詩人たちの懐古趣味的な意志が部分的には成功を収めたかのようである。ミケーネ社会の記憶はほぼ全て失われてしまっていたにせよ、吟遊詩人たちは、暗黒時代の(終わり頃よりも)始め頃をある程度は正確に描くために自分たちの時代より遅れたままに留まっていた――片やミケーネの残滓、片や同時代の表現という時代錯誤の断片を常に残存させて。

フィンリーの立場もまた今日では疑問に付されており、これは紀元前8-7世紀の特徴を見せる時代錯誤による部分が大きい。まず、『イーリアス』はファランクスに似た3つの記述を含んでいる――

かくて彼らは兜と円き楯を整えた。
楯、兜、そして人が互いにひしめきあい、
彼らが身を屈めると、馬の髪に覆われた兜が
隣の見事な飾冠にぶつかる、さほどに彼らは密集していた。

[35]

ファランクスの導入時期には論争があるが、大部分の論者は紀元前675年頃であったとしている。

戦車(二輪馬車)も、辻褄の合わない使われ方をしている――英雄たちは戦車に乗って出発し、飛び降りて足で立って戦っている。詩人はミケーネ人が戦車を使っていたことは知っていたが、当時の使用法は知らず(戦車対戦車で、投げ槍を用いていた)、同時代の馬の用法(戦場まで馬に乗って赴き、降りて立って戦闘していた)を当時の戦車に移し替えたのである。

物語は青銅器時代のただなかで進行しており、英雄たちの武具は実際に青銅でできていた。しかしホメーロスは英雄たちに「鉄の心臓」を与え、『オデュッセイア』では鍛冶場で焼きを入れられた鉄斧の立てる音のことを語っている[36]

こうした異なった時代から発している慣習の存在は、ホメーロス言語と同様に、ホメーロス世界もそれ自体としては存在しなかったことを示している。オデュッセイアの旅程の地理関係もそうであるように、これは混淆による詩的な世界を表している。


注釈

  1. ^ « τυφλὸς ἀνήρ, οἰκεῖ δὲ Χίῳ ἔνι παιπαλοέσσῃ », vers 172. 讃歌は、紀元前7世紀中葉から紀元前6世紀初頭の間に作られたものである。
  2. ^ ハルポクラチオン英語版』によれば、メレスとクレテイスの物語は紀元前5世紀には既にヘラニコスが疑問視していたという。フィロストラトスの『映像[訳語疑問点]』にもこの話が現れる。(『Images』のフランス語訳
  3. ^ ディガンマがなければヒアートゥスとなる。

出典

  1. ^ Chantraine, Pierre (1999) (フランス語). Dictionnaire étymologique de la langue grecque, vol.II. II. Paris: Klincksieck. pp. 797. ISBN 2-252-03277-4 
  2. ^ フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編、樺山紘一監修『図説 世界史人物百科』Ⅰ古代ー中世 原書房 2004年 29ページ
  3. ^ 『オデュッセイア』VIII, 63-64.
  4. ^ 戦史』 III, 104.
  5. ^ Dion Chrysostome, Discours, XXXVI, 10-11.
  6. ^ FHG II, 221.
  7. ^ Snell, TrGF I 20 Achaeus I, T 3a+b.
  8. ^ Platon, Phèdre, 243a.
  9. ^ Diels, II, 88-89.
  10. ^ M. P. Nilsson, Homer and Mycenæ, Londres, 1933 p.201.
  11. ^ Aristote, Éthique à Eudème, 1248b.
  12. ^ R. G. A. Buxton, « Blindness and Limits: Sophokles and the Logic of Myth », JHS 100 (1980), p.29 [22-37.
  13. ^ Simonide, frag. 19 W² = Stobée, Florilège, s.v. Σιμωνίδου.
  14. ^ イーリアス(VI, 146).
  15. ^ Lucien, Histoire vraie (II, 20).
  16. ^ パラチヌス詞華集』(XIV, 102).
  17. ^ Kirk, p.1.
  18. ^ M.L. West, « The Invention of Homer », CQ 49/2 (1999), p.366 [364-382].
  19. ^ Éphore, FGrHist 70 F 1.
  20. ^ West, p. 367
  21. ^ West, p.365-366.
  22. ^ 歴史』(V, 67)
  23. ^ a b Hérodote (IV, 32).
  24. ^ Simonide, frag. 564 PMG.
  25. ^ 『ピティア祝勝歌』 (IV, 277-278).
  26. ^ Sénèque, De la brièveté de la vie (XIII, 2).(仏訳原文
  27. ^ a b Parry, p. XII.
  28. ^ Parry, p. XIII.
  29. ^ Parry, p. XIV-XV.
  30. ^ 『イーリアス』 (V, 576-579).
  31. ^ Iliade (XIII, 658-659).
  32. ^ E Lasserre, L'Iliade, Introduction, éd. Garnier-Flammarion.
  33. ^ De oratore, III, 40.
  34. ^ Jacqueline de Romilly, Homère, 1999.
  35. ^ Iliade (XVI, 215–217), extrait de la traduction de Frédéric Mugler. Voir aussi Iliade (XII, 105 ; XIII, 130-134) et peut-être Iliade (IV, 446-450 = VIII, 62-65).
  36. ^ Odyssée (IX, 390–395).
  37. ^ 井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』講談社学術文庫、2008年。 p152-153
  38. ^ fr:La Fille aux yeux d'or, édition Furne, 1845, vol.IX, p.2.(『金色の眼の娘フランス語版』)






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