フォルクスワーゲン・タイプ1
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エンジン
エンジンはVW・タイプ1の大きな特徴である。軽量さと簡易性を配慮して設計された4ストローク・強制空冷水平対向4気筒OHVで、素材には軽合金を多用した。当時は不凍液の技術がまだ未熟であったため、冬に屋外に放置しても故障しないよう、空冷式を採用している。それゆえ各シリンダーは独立した構造である。車体の最後部に置かれるRR(リアエンジン、リアドライブ)構造を前提に設計され、通常は4速ギアボックスを収めたトランスアクスルと結合されて搭載される。原設計はポルシェ事務所のフランツ・ライムシュピースが手がけた。
開発過程では水平対向2気筒や、2ストロークエンジンの採用も検討されたが、排気量に応じた効率や、高回転での耐久性などを総合的に判断した結果、水平対向4気筒が採用されたものである[11]。基本構造の完成度が高く、ビートルだけでも当初の1.0 Lから最終的に1.6 Lに至る排気量拡大などの大改良が幾度となくなされたにもかかわらず、基本レイアウトがそのまま踏襲され続けたことは特筆に値する。仮に水平対向2気筒や2ストローク方式であれば、1.6 L級までもの排気量拡大は実質不可能であった筈で、市販乗用車でもほとんど他例がない。
カムシャフトをクランクシャフトより下に配置し、吸排気ともシリンダー下側配置のプッシュロッドによってバルブを駆動する。このため燃焼室自体は吸排気バルブが同方向に揃ったバスタブ型のターンフロー式で、絶対的な燃焼効率は良くないが、生産性を重視してこのレイアウトを採用した。開発・生産着手当初は要求精度が高すぎる(工学的観点からすれば、必ずしも良いこととも言えない)エンジン設計のために、加工・組み立てにおける信頼性確保に相当な苦労があったというが、生産が軌道に乗ってからはこの高精度設計が功を奏し、優れた性能を得ることができた。
空冷エンジンではあるが、オイルクーラーを装備してオイルも積極的に冷却することで、エンジン全体の冷却効率を高めているのが特徴である。強制空冷用の冷却ファンはクランクシャフト回転の倍速で駆動され、十分な冷却性能を確保した。冷却効率向上のため、各シリンダーはシュラウド(導風板)でカバーされている。
水平対向の強制空冷エンジンゆえに「バタバタ」「バサバサ」などの擬音、もしくは「ミシンの音」と表現される大きな騒音を発したが、その代わり耐久性は抜群で、灼熱・酷寒の気候でもよく酷使に耐えた。また転がり抵抗を小さくする大径タイヤや、トップギアがオーバードライブ側に振られたギア比設定とも相まって、全開状態での連続巡航をも難なくこなした。
ただし耐久性と信頼性の代償として、ビートルのエンジンは、その排気量に対し、ほとんど常に同時代の平均より低出力であった。もっともこれは回転が上がらないためで、明らかに意図的にそう設計されたものである。倍速回転の冷却ファンが、回転数過大の場合はかえって有効に働かなくなる制約もあり、ある程度回転を抑え気味の設定が必要であった。ハイパワーを狙ったエンジンではないため、多くの場合ソレックス(ドイツ生産版)のシングルキャブレターを装備するシンプルな仕様が標準だった。
ポルシェは整備性にも重きを置いており、ビートルのエンジンルームはコンパクトだが整備に支障のないように必要充分なゆとりが確保されていた。エンジン交換も比較的容易で、1970年代などに盛んに行われたファン・ミーティングでは「エンジン脱着競争」(ル・マン式スタートの如く、車から離れたスタート地点から二人一組のチームが車に駆け寄り、エンジンを外した後、それを台車に載せてスタート地点に戻り、また車に戻ってエンジンを装着し、エンジン始動の後に車をスタート地点までバックさせてゴール。平均タイムは20分少々)が恒例行事として行われていた。
エンジンの応用
VW空冷エンジンは、コンパクトにまとまった構造を活かしてVW自社から単体で産業用エンジンとしても販売され、発電機や車載冷凍機の駆動用途などに広く活用された(日本でもヤナセが産業用として取り扱っていた)。ハンブルクの商用車メーカーである テンポは、1949年に発売したユニークな前輪駆動商用車マタドールの動力に産業用VWエンジンを利用したが、これは1950年発売のVW・タイプ2と真っ向から競合するモデルで、1952年にエンジン供給が打ち切られ、マタドールは以後他社のエンジンを搭載するようになっている。
廉価で軽く頑丈なため、オートバイや軽飛行機などのエンジンにも流用された。
オートバイへの流用は、ブラジルのオートバイブランド”アマゾネス”よりリリースされ、1600 ㏄エンジンを搭載した当時世界最大排気量のオートバイとして名を馳せた。しかし、アマゾネス自体の車輌信頼性の低さと高価格が災いし、このモデルのみに留まり次世代モデルが開発されなかった。少数であるが日本にも並行輸入された実績がある。
VWエンジンを使ったフォーミュラカー、Vee(1.2 Lエンジンを使用)・Super Vee(1.6 Lエンジンを使用)のシリーズも存在し、同シリーズからはニキ・ラウダがF1まで駆け上っている。
注釈
- ^ ヒトラーが同時期にフリッツ・トートを起用して広域整備を計画していた、自動車専用高速道路「ライヒスアウトバーン」を念頭に置いた条件である。1930年代中期、この速度を保って巡航できる1.0 Lクラスの4座小型乗用車は、世界的に見てもいまだほとんど存在していなかった。
- ^ 当時、水冷エンジンは冬期の冷却水凍結によるトラブルや始動困難が多く、寒冷なドイツではその対策が切実な課題であったため。またヒトラーはタトラの小型空冷エンジン車に、その簡易さと耐久性の高さから傾倒していた。
- ^ ただし、ヒトラー自身は流線型デザインの理論面を充分に理解していなかった。ヒトラーがポルシェとの会談で自ら描いて提示した「自動車」の側面図が残っているが、前方こそ当時から知られていた通俗的な流線型車の丸みを帯びているものの、後部は四角いノッチバックで、いわゆるヤーライ型流線型車に属するのちのタイプ1とはまったく関連性がない。
- ^ ドイツ・フォードは1932年からケルン工場で、大衆車市場への参入を狙って1000 - 1200 ccクラスの小型乗用車「ケルン」「アイフェル」を相次いで生産していた。1939年には「アイフェル」の後継モデルである流線型ボディの初代「タウヌス」(1172 cc・34 HP)を発売、このタウヌスシリーズは第二次世界大戦後の生産再開以降、フォルクスワーゲンのドイツ市場における競合車種となっている。
- ^ 車名は文字通りの「国民車」である「フォルクスワーゲン」として計画されていたが、ヒトラーは下話もなくいきなり「KdF」と車名を決定してしまったため、公式名称やPR資料等の変更に周囲が奔走する羽目になった。
- ^ 日本では1960年代以降、自治体消防に救急車を配備しての救急搬送が普及し始めるまで、急患の場合はかかりつけの開業医に自宅まで往診してもらうことが普通であった。この往診の移動需要から、日本の開業医は近代以前には駕籠、明治時代以降は人力車や自転車、更にはオートバイや自動車といった新しい交通手段の先駆的ユーザーとなってきた歴史がある。
出典
- ^ a b c d e f g “フォルクスワーゲン・ビートル(1947年)”. GAZOO. 2020年7月3日閲覧。
- ^ 椎橋 2011, pp. 100, 105.
- ^ 椎橋 2011, pp. 104–105.
- ^ a b Volkswagen社、旧型「Beetle」の生産を終了 日経BPネット 2003年8月1日
- ^ VW「ビートル」生産終了へ 80年の歴史を持つ名車朝日新聞DIGITAL(2018年9月14日)2018年9月20日閲覧。
- ^ “VW、ビートルの生産を終了 初代から80年の歴史に幕”. 毎日新聞 (2019年7月11日). 2019年7月11日閲覧。
- ^ 椎橋 2011, p. 101.
- ^ 椎橋 2011, p. 103.
- ^ ワーゲン・ストーリー J・スロニガー著/高斎正 グランプリ出版 ISBN 4-906189-24-5
- ^ a b c 椎橋 2011, p. 105.
- ^ 椎橋 2011, pp. 103–104.
- ^ 三栄書房「ラリー&クラシックス Vol.4 ラリーモンテカルロ 100年の記憶」内「ラリーモンテカルロ・ヒストリック マシン総覧」より抜粋、参考。
- ^ F-Vee誕生50年を祝い、デイトナに名選手集結へ
- ^ 占いやらレコードやら 何かいい事・・・ -マニアどたん場の殺到 読売新聞 1977年12月24日 夕刊8頁
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