ナバス・デ・トロサの戦い ナバス・デ・トロサの戦いのもたらした影響

ナバス・デ・トロサの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/19 06:16 UTC 版)

ナバス・デ・トロサの戦いのもたらした影響

ナバス・デ・トロサの戦いでムワッヒド朝の受けた打撃は壊滅的ともいえるもので、以後イベリア半島のイスラム勢力は衰退と後退の一途をたどることになった。そしてムワッヒド朝の本国であるマグリブにおいても、やや時期が遅れたものの、衰退に拍車をかけることになった。一方でカトリック諸国のレコンキスタの進展にはずみをつけることになった。カトリック諸国間の内紛や1225年の大飢饉がなければ、もっとレコンキスタが加速したであろうと言われている。

1213年のナースィルの死後、息子のユースフ2世が後を継いだが、1224年に彼が子の無いまま死ぬと後継者争いが起こり、ムワッヒド朝はアンダルスでも本拠地の北アフリカでも分裂・弱体化していった。アンダルスに小国家群(タイファ)が乱立、北アフリカでもモロッコのマリーン朝チュニジアハフス朝が誕生、ムワッヒド朝は対処し切れず1269年にマリーン朝の攻撃で滅亡した[12]

ナバス・デ・トロサの戦いの後、カスティーリャはバエサウベダを獲得した。これはナバス・デ・トロサ近郊の主要な砦であり、アンダルシアへ侵入する玄関口ともいえる拠点であった。ところが軍に疫病が発生したためカトリック連合軍はトレドへ引き返し、翌1213年にペドロ2世とナースィルが、1214年にアルフォンソ8世とディエゴ・ロペス2世といった戦いの参加者たちが死亡したため双方の軍事行動は停滞、キリスト教側は騎士団やロドリゴが辺境守備に奔走しながら拡張を試みたが上手くいかず、教皇ホノリウス3世も十字軍召集を呼びかけたりレオンに支援を要請したが、いずれも成果は上がらなかった。イスラム教側も同様で、守備は現地住民とムワッヒド朝の総督に任せきりの状態だった[13]

カスティーリャのレコンキスタはアルフォンソ8世の孫のフェルナンド3世の時代、1236年コルドバ1243年ムルシア1246年にハエン、1248年にセビリアを占領して飛躍的に進展した。新たにアルコスメディナ=シドニアヘレスカディスを獲得している。1252年にフェルナンド3世が死去した時はナスル朝グラナダ王国を除いて、タイファ諸国はすべて併合された[注 4][14]

一方、アラゴンはハイメ1世の時代、1228年から4年をかけてバレアレス諸島を征服し、1238年9月にバレンシアを占領した。バレンシアは13世紀の地中海においてジェノヴァヴェネツィアに次ぐ商業都市となり、アラゴンはバレアレス諸島からサルデーニャシチリアまでの西地中海域を支配する「帝国」へと成長した[15]


  1. ^ マンスールは初め休戦を拒否、マドリードなどトレド周辺都市を荒らし回っていたが、北アフリカ・チュニジアで反乱が起こり足元に火が付いたため休戦を余儀無くされた。またこの時期、アラルコスの戦いで所領や団員の多くを失ったカラトラバ騎士団サンティアゴ騎士団など各騎士団は、教皇から新たに所領と城を補充してもらい戦力を増強した。ローマックス、P166 - P168、芝、P133。
  2. ^ アルフォンソ8世は普通のムスリム住民には寛容であり、カラトラバの町の住民に攻撃を予告して逃がしたために戦意を失ったフランス人騎士たちが帰国した。このフランス人たちに対する評判は悪く、帰路立ち寄ったトレドで彼等は市民から入城を拒否されたばかりか、石を投げられたり罵倒される有様で、従軍していたロドリゴはフランス人を痛烈に批判、アルフォンソ8世の娘ベレンゲラも戦後に父から報告を受け取り、フランスへ嫁いだ妹ブランカに伝達した手紙で戦勝報告とフランス人の離脱を書き送っている。ローマックス、P172、P175、鈴木、P178、芝、P224。
  3. ^ 脇腹へ抜ける山の間道(Despeñaperros Pass;直訳はDespeña-「絶壁から突き落とす」+-perros「犬たちorひどい、劣悪な」→「絶壁にある犬走り、間道」又は「絶壁にある劣悪な間道」か?)をこっそり通って奇襲をかけた、あるいはアンダルシア地方の「王の橋」を通ってシエラ・モレーナ山脈を通り抜けて攻撃をかけたという。鈴木、P178。
  4. ^ フェルナンド3世のレコンキスタが進展した背景にはムワッヒド朝やタイファの内乱があり、それに上手く付け入り町の住民へ寛大な条件で降伏を勧める調略と武力を駆使したことで容易に都市奪取が出来た。カリフ候補者のアブドゥッラー・アーディルアブー・ムハンマド・アル・バイヤーシースペイン語版の対立では1224年にバイヤーシーと兄弟のアブー・ザイド英語版を臣従させ、親アーディル派の地方を攻撃、バイヤーシーから協力の見返りにいくつかの都市を獲得した。1233年にはイブン・フードとグラナダ王ムハンマド1世の争いに乗じて、ムワッヒド朝に奪還されていたウベダを再占領、1236年にムハンマド1世と協力しながらコルドバを包囲して落とし、1243年のムルシア降伏でレコンキスタは順調に進んだ。1246年にムハンマド1世の臣従とハエン引き渡しも約束させ、1248年のセビリア陥落でレコンキスタは事実上の終結を迎えた。ローマックス、P188 - P190、P197 - P212、芝、P146 - P147。
  1. ^ ローマックス、P162 - P165、芝、P131 - P132、関、P113、P153、西川、P138。
  2. ^ ローマックス、P165、芝、P132、P193、西川、P138 - P139。
  3. ^ バード、P68、ローマックス、P165 - P166、芝、P132 - P134、P194、関、P153 - P154、西川、P139 - P140。
  4. ^ ローマックス、P168、芝、P134。
  5. ^ ローマックス、P168 - P169、芝、P137 - P138。
  6. ^ ローマックス、P169 - P170、芝、P138、西川、P140 - P141。
  7. ^ ローマックス、P170 - P171、芝、P138 - P139。
  8. ^ ローマックス、P171 - P172、芝、P139、西川、P141。
  9. ^ ローマックス、P172 - P173。
  10. ^ 芝、P139 - P140。
  11. ^ バード、P69 - P70。
  12. ^ ローマックス、P187、P191 - P192、P222、芝、P142 - P144、関、P115 - P116、P121。
  13. ^ ローマックス、P174 - P183、芝、P140 - P141、P144 - P146、西川、P142。
  14. ^ ローマックス、P188 - P216、芝、P146 - P148、関、P154、西川、P144 - P145。
  15. ^ ローマックス、P193 - P194、P202 - P203、芝、P146、関、P222 - P223、西川、P145 - P146。






固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ナバス・デ・トロサの戦い」の関連用語

ナバス・デ・トロサの戦いのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ナバス・デ・トロサの戦いのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのナバス・デ・トロサの戦い (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS