テマ制
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脚注
注釈
出典
関連資料
- 和田廣『ビザンツ帝国 - 東ローマ一千年の歴史』教育社、1981年。
- J.Haldon著『The Palgrave Atlas Of Byzantine History』Palgrave Macmillan,2005年,ISBN 978-1403917720
- ゲオルグ・オストロゴルスキー 著、和田廣 訳『ビザンツ帝国史』恒文社、2001年。ISBN 9784770410344。
- ポール・ルメルル 著、西村六郎 訳『ビザンツ帝国史』白水社、2003年。ISBN 4560058709。
- 朝治啓三『西洋の歴史基本用語集 古代・中世編』ミネルヴァ書房、2008年。ISBN 9784623050871。
- 井上浩一『ビザンツ帝国』岩波書店、1982年。ISBN 4000045555。
- 井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』講談社、1990年。ISBN 406149032X。
- 井上浩一、栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』中央公論社、1998年。ISBN 4124034113。
- イアン・ヒース 著、柊史織 訳『ビザンティン帝国の軍隊 886-1118 ローマ帝国の継承者』新紀元社、2001年。ISBN 4775300253。
- 井上浩一『諸文明の起源8 ビザンツ 文明の継承と変容』京都大学学術出版会、2009年。ISBN 9784876988433。
- 尚樹啓太郎『ビザンツ帝国史』東海大学出版会、1999年。ISBN 4486014316。
- 根津由喜夫『ビザンツの国家と社会』山川出版社、2008年。ISBN 9784634349421。
- ジョナサン・ハリス 著、井上浩一 訳『ビザンツ帝国 生存戦略の一千年』白水社、2018年。ISBN 9784560095904。
関連項目
- ^ バルカン半島やイタリア半島の沿岸部その他に点在する小領土には、「クレイズーラ」「アルコンティア」「ドゥカトン」「カトエバナーテ」と呼ばれる小規模な組織が置かれ、10世紀になってテマに昇格した[11][12]。
- ^ このときアルメニア方面から移動したテマ・アルメニアコイと、トラキア方面から移動したテマ・トラケシオイは、移駐前の名称が残り、所在地と名称が異なることとなった[9][8]。また、旧オリエンス軍団であるテマ・アナトリコイ[8]は、「オリエンス」のギリシア語形に由来する[9]。
- ^ ビザンツ史研究においては「ビザンツ帝国は東ローマ帝国とは異なる帝国である」とする見解も根強く、連続説と断絶説とに分かれて長らく議論が続いている[26][27]
- ^ a b c ヒース2001、pp.19-20。
- ^ a b c 世界の歴史11、pp.69-70。
- ^ 和田1981、pp.124-126。
- ^ 和田1981、pp.126-127。
- ^ 和田1981、p.127・183。
- ^ 根津2008、p.27・34。
- ^ ヒース2001、pp.21-22。
- ^ a b c d 世界の歴史11、p.58。
- ^ a b c d e 根津2008、pp.26-27。
- ^ 根津2008、pp.26-27、p.34・51。
- ^ 和田1981、pp.125-126。
- ^ 根津2008、p.35。
- ^ ハリス2018、pp.126-127。
- ^ 和田1981、p.194。
- ^ 和田1981、pp.45-46。
- ^ 和田1981、pp.124-125。
- ^ ハリス2018、pp.125-126。
- ^ 和田1981、p.126。
- ^ 世界の歴史11、p.54。
- ^ 根津2008、p.32。
- ^ 朝治2008、「テマ」の項。
- ^ a b 根津2008、p.28。
- ^ a b c d e f g 根津2008、pp.26-30。
- ^ a b 根津2008、pp.29-30。
- ^ 世界の歴史11、pp.66-70。
- ^ 井上2009、p.5。
- ^ 井上2009、p.363。
- ^ ハリス2018、pp.121-131。
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