ダキア 歴史

ダキア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/10 14:57 UTC 版)

歴史

ローマ属州化以前

知られている限りで最も古いゲタエ人の首領はドロミヘテ(Dromihete、又はDromichaetes)(紀元前300年頃)と伝わっており、当時はドナウ川下流域が勢力圏であった。紀元前2世紀半ばのルボボステス(Rubobostes)より徐々に西進を始めて、紀元前2世紀末から紀元前1世紀始めに頃に現在のトランシルヴァニア地方に住んでいたガリア人を追い出す形で移住したとされる。

その頃より徐々に文献にも「ダキア人」の名が出るようになり、例えばガイウス・ユリウス・カエサルの『ガリア戦記』にも記された。度重なるバスタルナエ族との抗争や、共和政ローマとの抗争(紀元前112年〜前109年、紀元前79年)で疲弊したダキアを立て直したのは、ブレビスタであった。ダキア全部族を統一したブレビスタはストラボンによると20万とも称される兵を率いて、現在のハンガリーに居住していたスコルディスキ族ボイイ族らを攻撃して、これら部族の領土を奪い取った。最終的にブレビスタはティサ川流域からドナウ河畔、パンノニア地方や黒海沿岸にまで支配地を拡大した。同時期にガリア戦争を遂行していたカエサルは、終身独裁官となった後にパルティアゲルマニアと共にダキアのローマ属州化を目論んだものの、カエサルが暗殺されたことで免れた。

ブレビスタの死後は遺産相続ルールに従って王国は4つに分割された。その後継者の一人がコティソ(en:Cotiso)であったが、ローマを脅かす力は最早失っていた。

ローマ属州

ローマ帝国内におけるダキア州の位置(赤)106〜271年 首都はウルピアトラヤーナ(現在のトランシルヴァニア地方フネドアラ県のサルミゼゲトゥサ市 Sarmizegetusa)。北西部の上ダキアと中央部の下ダキアのみが帝国に組み込まれ、東部は属州外地として残った

86年にダキア王となったデケバルスは、たびたびローマ属州モエシアへと侵入を繰り返し、86年にはタパエでローマ2個軍団を壊滅させる等、ローマ帝国にとって非常な脅威であった。

98年にローマ皇帝に就任したトラヤヌスはダキアへの関心を高め、101年からローマ帝国とダキアの間で戦争が開始された(ダキア戦争)。2次に渡る戦争の末、106年にローマの攻撃に首都サルミゼゲトゥサが陥落、デケバルスは自害して王国は滅亡し、ローマ帝国の属州(ダキア属州)となった。現在のルーマニアの公式史観である「ダキア=ローマ史観」ではローマ帝国の支配下でダキア人らはローマ化され、ラテン系の言語を話すルーマニア人の祖となったと主張されている。

ダキア征服からアウレリアヌス帝がゴート族へ領土を引き渡すまでの、165年にわたってローマ帝国の支配下に置かれた。しかし実質的に支配を受けたのはダキア中央部および南西部のみで、ダキア全体の半分にも満たなかった。古代ローマ帝国の支配が及ばなかった北部は「自由ダキア」と呼ばれ、「自由ダキア人」たちがしばしば反乱を起こしていたことも判っている。

以降の歴史に関しては、ルーマニアの歴史を参照のこと。


  1. ^ Statul geto-dac în timpul lui Burebista (ルーマニア語)


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