ジェームズ2世 (イングランド王) 人物像

ジェームズ2世 (イングランド王)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/27 15:30 UTC 版)

人物像

第2次英蘭戦争で奇襲を受けるイングランド軍艦。海軍総司令官の職にあったジェームズは、対オランダ主戦論者の中心的存在でもあった

ジェームズは、国王は断固たる強い姿勢を維持しなければならないと考えていた。これは優柔不断から妥協や追従を繰り返し、ついには腹心ストラフォード伯の処刑に署名してしまった父チャールズ1世の教訓があった。実際、兄チャールズ2世に、安易な妥協をしないようたびたび進言している。しかし一方で、自身が安易な妥協を見せることもあった。政治家として時には譲歩しなければならないと感じたゆえのことであったが、これによって原則を強調しながらも大衆受けを狙う行動を時折見せた。信仰自由宣言によって非国教会信徒に官職の門戸を開こうとしたのも、こうした下地があった。

ジェームズはまた、人物を敵味方の二分法で分けがちなところがあった。ジェームズにとって、自分の意見を是とする者は信頼に足る者であり、諌言を行う者は敵であった。これは亡命中、イングランド内戦の情報を国王派に偏った者から得ていたためでもある。国王派からみれば、チャールズ1世は正当な主張に則った行動をしており、野心的なイングランドの議会派ジェントリが民衆の間に広がっていた不満を利用して国を混乱に陥れた、と映っていた。側近らはそのままジェームズに伝え、他に情報のチャンネルがないジェームズは、これを鵜呑みにせざるを得なかった。結果、議員・政治家を疑ってかかるようになり、敵と判断した者を排除しようとした。

系譜

ジェームズ2世 父:
チャールズ1世 (イングランド王)
祖父:
ジェームズ1世 (イングランド王)
ジェームズ6世 (スコットランド王)
曽祖父:
ヘンリー・ステュアート[1]
曽祖母:
メアリー (スコットランド女王)[2]
祖母:
アン・オブ・デンマーク
曽祖父:
フレゼリク2世 (デンマーク王)
曽祖母:
メクレンブルク公ゾフィ―
母:
ヘンリエッタ・マリア
祖父:
アンリ4世 (フランス王)
曽祖父:
アントワーヌ (ヴァンドーム公)
曽祖母:
フアナ3世 (ナバラ女王)[3]
祖母:
マリー・ド・メディシス
曽祖父:
フランチェスコ1世・デ・メディチ
曽祖母:
ジョヴァンナ・ダズブルゴ

系図


注釈

  1. ^ 「ジャコバイト」のもととなったJacobusは「ジェームズ」のラテン語読みである。詳しくは「ジャコバイト」を参照。
  2. ^ 次例は2011年にウィリアム王子に嫁いだキャサリン・ミドルトンである。ただし結婚当時のウィリアムは正式な王位継承者であるチャールズ3世の長男であり、次々代の王位継承予定者だったところがジェームズの場合と若干異なる。
  3. ^ イングランドの反カトリック感情は「よき女王ベス」と慕われたエリザベス1世(1558年 - 1603年)がプロテスタントで「流血のメアリ」と怖れられたメアリー1世(1553年 - 1558年)がカトリックであったこと、1640年にアイルランドで起こったカトリック市民によるプロテスタントの虐殺事件の記憶が残っていたこと、長年の敵国フランスがカトリックの大国であったことなど、複合的な原因による。
  4. ^ 排除法案に批判的な貴族院と連携して否決させたり、拒否権や議会解散権を行使して排除法案を廃案に追い込んだ。
  5. ^ カトリックであることを告白したと表するものもある。この場合、遡ってカトリック信仰であったことを意味する。この点については議論があるが、いずれにせよチャールズは生前からカトリックに理解・共感を示していた。
  6. ^ この反乱に対するジェームズの厳しい態度から、後世の史家たちから「血の巡回裁判」「残酷な支配者」と批判されることもあったが、当時はこれらの処置を当然と見る向きがほとんどで、同時代人からは批判されていない。
  7. ^ こうした政策や宣言が、非国教会プロテスタント(たとえば長老派などピューリタン)の支持を得るためであったのか、もしくは真に信仰の自由を実現しようという意図であったのかについては論争がある。
  8. ^ カレッジ制をとるオックスフォード大学のなかでも歴史と伝統が長い両校は、政治的影響力も小さくなかった。また大学選挙区を有しており、オックスフォード大学選挙区から2名の下院議員を選出していた。
  9. ^ 裁判では無罪を言い渡されている。
  10. ^ すでに生まれていたのを隠し、この時期に公表したのではないかという指摘もされている。
  11. ^ 援軍を招けば、イングランドがフランスに占領される、もしくは戦禍が国土に及ぶという危惧がジェームズ2世にはあった。
  12. ^ ジェームズ2世を処刑すべしという声もあったが、イングランド内戦のさなかチャールズ1世が首を刎ねられ、結果的に殉教者として同情が集まったという経緯があった。ジェームズ2世を逃がしたのは、かつてはウィリアム3世の度量の広さゆえであるとも言われたが、実際はジェームズ2世の人気を回復させないためであった。
  13. ^ 仮議会は王政復古1660年)の時も召集されているが(1660年仮議会)、双方ともどのような手続・法的根拠によって仮議会が召集されたのか明らかになっていない。
  14. ^ カトリック・プロテスタントを問わずアイルランドにおいては信仰による差別をしないとする法。
  15. ^ レイスウェイク条約をイングランドとの間に締結して大同盟戦争を終わらせたルイ14世は、これ以上ウィリアム3世のイングランドと対立を続ける材料がなくなったためでもある。
  16. ^ たとえば修正主義学派は、チャールズ1世の兄ヘンリー1594年 - 1612年、聡明な人物として将来を嘱望されていたが早世した)が長生きしていれば清教徒革命は起こらなかったのではないかと指摘している。

出典

  1. ^ Weir, Alison (1996). 258. Britain's Royal Families: The Complete Genealogy. Revised Edition. Random House, London. ISBN 0-7126-7448-9





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