エマニュエル・アルマン・ド・リシュリュー (デギュイヨン公爵) エマニュエル・アルマン・ド・リシュリュー (デギュイヨン公爵)の概要

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > エマニュエル・アルマン・ド・リシュリュー (デギュイヨン公爵)の解説 > エマニュエル・アルマン・ド・リシュリュー (デギュイヨン公爵)の概要 

エマニュエル・アルマン・ド・リシュリュー (デギュイヨン公爵)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/15 15:14 UTC 版)

デギュイヨン公

略歴

17歳で軍に入隊、ブリエ連隊の大佐となる。オーストリア継承戦争に従軍し、イタリアに派遣されている。1744年、シャトー・ドーファンの包囲戦で重傷を負う。1746年捕虜となるが、1748年陸軍元帥に昇進する。

宮廷内ではポンパドゥール夫人ジャンセニスト高等法院(パルルマン)の三者に対して反対派の立場を取った。1753年ブルターニュ地方総監に任命されるが、現地の住民の同意なく新税を課税しようとするなどして衝突したため、任地ではひどく不人気であった。1764年6月、国王ルイ15世は地方の同意無しに新税の課税が禁止されている件を、国王大権を制限するものとして破棄した。翌1765年にデギュイヨン公とブルターニュ地方の対立は頂点に達し、デギュイヨン公は現地の高等法院を閉鎖し、独自に有能な法律家を集めて裁判所を創設したが、このことは批判を浴び風刺された。

1768年に宮廷に戻り、1770年12月24日に外務卿(外務大臣ショワズール公の失脚後外務卿に就任し、大法官モープー、アベ・テレと共に宮廷における実力者としてルイ15世の治世末期、国政を指導した。この3人の体制は宮廷内では不評で、「三頭政治」と呼ばれ非難されることもあったが、ルイ15世が死去する1774年まで続き政治的には安定した状態を作った。

ルイ15世が天然痘により崩御、ルイ16世が即位すると、デギュイヨン公はデュ・バリー夫人の一派であったため、夫人と対立関係にあった王妃マリー・アントワネットに忌避され辞任した。

フランス革命国民議会議員となって封建的特権の廃止に賛同したアルマン・デジレ・デギュイヨン公爵[2]は息子である。

脚注

[脚注の使い方]

参考文献

  • Mémoires du ministere du duc d'Aiguillon (2nd ed., Paris and Lyons, 1792), probably written by J. L. Soulavie

ブルターニュでのデギュイヨン公の統治については以下を参照。

  • Henri Carré, La Chalotais et le duc d'Aiguillon (パリ, 1893年)
  • Marcel Marion, La Bretagne et le duc d'Aiguillon (パリ, 1898年)
  • Barthèlemy Pocquet, Le Duc d'Aiguillon et La Chalotais (パリ, 1901年-1902年) (These have bibliographies.)

この他

公職
先代
ルイ・フェリポー
フランス外務大臣
1771年 - 1774年
次代
アンリ・レオナール・ジャン・バティスト・ベルタン
先代
モンティナール侯爵ルイ・フランソワ
フランス陸軍大臣
1774年1月27日 - 1774年6月2日
次代
デュ・ムイ伯
フランスの爵位
先代
アルマン=ルイフランス語版
デギュイヨン公爵英語版
1750年 - 1788年
次代
アルマン=デジレ英語版

  1. ^ 冠詞を取り除けばエギュイヨンで、表記はエギヨンあるはデギヨンでも可
  2. ^ Armand Désiré de Vignerot du Plessis


「エマニュエル・アルマン・ド・リシュリュー (デギュイヨン公爵)」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「エマニュエル・アルマン・ド・リシュリュー (デギュイヨン公爵)」の関連用語

エマニュエル・アルマン・ド・リシュリュー (デギュイヨン公爵)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



エマニュエル・アルマン・ド・リシュリュー (デギュイヨン公爵)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのエマニュエル・アルマン・ド・リシュリュー (デギュイヨン公爵) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS