三顧の礼
別表記:三顧
三顧の礼とは、目上の者が目下の者のもとに幾度も出向くなどして礼を尽くし、物事を頼む、という意味の故事成語。わかりやすく言うと、上司や年長者が目下の相手を軽んじることなく心から敬意を払って頼みごとをするということである。「三顧」だけでも「三顧の礼」と同じ意味の表現として用いられる。ちなみに「三顧」とは、3回にわたって訪問するという意味である。
三顧の礼は、黄巾の乱を平定し一大軍勢を築いていた劉備が、無位無官かつ大幅に年下の(どう捉えても格下の)諸葛亮を軍師として迎え入れるために、諸葛亮の住まう庵を3度も訪ねた、という故事が由来となっている。
英語には「三顧の礼」に直接対応する表現は特になく、英語で表現するなら「最大限の敬意を払う」という意を汲み show(ing) special courtesy とか with all eagerness のように意訳することになる
さんこ‐の‐れい【三顧の礼】
読み方:さんこのれい
「三顧」に同じ。
三顧の礼
三顧の礼
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 13:46 UTC 版)
詳細は「三顧の礼」を参照 劉表から新野城(現在の河南省南陽市新野県)を与えられ、ここに駐屯して夏侯惇・于禁の軍を博望坡にて撃破した。しかし、劉備の元に集まる人が増えたことで、劉表は劉備を猜疑するようになった。また、劉表は外征に熱心ではなかったため、曹操の烏丸討伐の隙をついて許昌を襲撃するようにという劉備の進言は劉表に受け入れられなかった。 この時期のエピソードとして「ある宴席で、劉備が厠に行った後に涙を流して帰ってきた。どうしたのかと劉表が聞くと『私は若い頃から馬の鞍に乗っていたので髀(もも)の肉は全て落ちていました。しかし今、馬に乗らなくなったので髀に肉が付いてしまいました。既に年老いて、何の功業も挙げていないので、それが悲しくなったのです』と答えた」という話がある(裴松之が注に引く『九州春秋』より)。この事から髀肉之嘆(ひにくのたん)という故事成語が生まれた。 この頃(建安12年(207年))、諸葛亮を三顧の礼にて迎え入れ、既に強大な勢力を築いている曹操に対抗するためには荊州と西の益州を手に入れて天下を三分割してその一つの主となり孫権と協力して曹操に立ち向かうべしという天下三分の計を説かれた。 劉表が没し、劉表の後を継いだ劉琮が曹操に降伏した。諸葛亮は劉琮を討って荊州を奪ってしまえと進言したが、劉備は「忍びない」と言って断り、逃亡した。 劉備が逃亡すると、劉琮配下や周辺の住民10数万が付いてきた。そのためその歩みは非常に遅く、すぐにでも曹操軍に追いつかれそうであった。ある人が住民を捨てて早く行軍し江陵を確保するべきだと劉備に進言したが、「大事を成すには人をもって大本としなければならない。私についてきた人たちを捨てるのは忍びない」と言って住民と共に行軍を続けた。 その後曹操の軽騎兵隊に追いつかれて大打撃を受け、劉備の軍勢すら散り散りで妻子と離ればなれになり、2人の娘は曹純に捕らえられるという悲惨な状況だった。ただし、趙雲が乱戦のなか劉備の子・阿斗(後の劉禅)と甘夫人を救っている。 殿軍を務めた張飛の少数部隊が時間稼ぎをし、関羽の軍と合流する事で態勢を立て直し、さらに劉表の長子・劉琦の軍と合流した(長坂の戦い)。 そして孫権陣営から様子見に派遣されてきた魯粛と面会し、諸葛亮を孫権の下に同盟の使者として派遣する。諸葛亮は孫権の説得に成功して同盟を結び、建安13年(208年)、赤壁の戦いにおいて曹操軍を破った。 赤壁の戦いの後、劉備は荊州南部を占拠し、劉琦を上表して荊州刺史にたて、荊州の南の四郡(武陵、長沙、桂陽、零陵)を併合した。その後程なくして劉琦が死去すると、家臣たちに推戴されて荊州牧となった。 劉備が荊州を治めるようになると、潘濬を治中従事に任じた。後に劉備が蜀に入ると、彼を荊州に留めて州の事務の処理にあたらせた。 劉備の荊州牧就任後、劉備の勢力拡大を憂慮した孫権は、自らの妹(孫夫人)を劉備に娶わせ、さらに共同して西の蜀(益州)を獲ろうと申し出てきたが、劉備たちは蜀を分け取りにするよりも自分たちだけのものにしたいと考えたためこれを断った。
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三顧の礼
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 07:13 UTC 版)
華北ではこの頃、建安5年(200年)に曹操が袁紹を打ち破って覇権を手中にし、南進の機会を窺っていた。劉備は袁紹の陣営を離れて劉表を頼り、荊州北部の新野(現在の河南省南陽市新野県)に居城を貰っていた。 諸葛亮は前述のように晴耕雨読の日々を送っていたが、友人の徐庶が劉備の下に出入りして、諸葛亮のことを劉備に話した。人材を求める劉備は徐庶に諸葛亮を連れてきてくれるように頼んだが、徐庶は「諸葛亮は私が呼んだくらいで来るような人物ではない」と言ったため、劉備は3度諸葛亮の家に足を運び、やっと迎えることができた。これが「三顧の礼」である。裴松之の注によると、『襄陽記』には、劉備が人物鑑定家として有名な司馬徽を訪ね、司馬徽は「時勢を識るは俊傑にあり」として「伏竜」と「鳳雛」、即ち諸葛亮と龐統とを薦めたという話が載る。また『魏略』には、諸葛亮の方から劉備を訪ねたという話が載っていたという。その後に裴松之自身の案語として「「出師表」には明らかに劉備が諸葛亮を訪ねたと書いてある。それなのにこんな異説を立てるとは、実に訳の分らぬ話である」とある。この時、諸葛亮は劉備に対していわゆる「天下三分の計」を故事に習って示し、曹操・孫権と当たることを避けてまず荊州・益州を領有し、その後に天下を争うべきだと勧めた。これを聞いた劉備は諸葛亮の見識を認め軍師中郎将(中佐)左将軍府事(防衛省作戦課長)任じた、また諸葛亮は劉備に仕えることを承諾した。これを「孔明の出廬」という。
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