40代の事績
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40代の清助は、明治10年(1873年)東京上野公園で開催された第一回内国勧業博覧会に作品を出展し、自分の技術を世に問うている。この時の彼の出展作品は「関羽印」「聨(れん)」「書画」「青石」「石器」の5点。いずれも石製品であったと考えられ、聨は漢詩や書画を刻した細長い石版、書画は同じく石造のレリーフ、石器は石笛であったとされており、青石も何らかの彫刻と考えられるが詳細は不明である。これらの作品は、現在いずれも所在不明となっているが、清助は河内諏訪神社の狛犬の台石に、自分の名とともに精緻な彫りで印面を刻み込んでおり、ここに見られる印面は「関羽印」を想像する上で参考になるだろう。この時の作品で最も興味深いのは「石器」こと石笛であり、清助はこの石笛で褒賞を受賞。現在、清助の子孫の家に褒状のみ現存している。褒状には「軟石ヲ密鐫シテ刀痕鮮明ナリ其石笛ハ発音未タ正律ニ協ハスト雖モ朗爽トシテ渋滞ナキハ鐫鑿ノ宜キニ因ヲ観ル」と受賞理由が明記され、これによって失われた石笛が軟石を緻密に彫刻したものであること、その笛が音階こそ整っていないものの爽やかな音色を奏でたことを知ることができる。笛の種類は特定できないが、音階があることから、複数の穴を配して音階を変えることの出来る横笛か、尺八のような縦笛であったのだろう。なお、清助はこれらの作品の他に、球状の石が入った石の壺、石のテーブル、石のコーヒーカップなどを制作したというが、いずれも現存していない。 一方40代の清助の作品は現在二点が確認されているのみである。そのうちの一点は下田市横川、太梅寺の子安地蔵坐像で、角柱型の尼僧の供養塔の上部に、蓮台に片足を踏み下げて坐す地蔵菩薩の像を刻んだ作品である。地蔵菩薩は下膨れで、蚕の繭形を呈する円満な慈悲相を浮かべて正面を見つめ、左腕には赤子を抱いている。また、地蔵菩薩の右膝元にも一人の童子がいて、地蔵にすがりつきながら温顔を仰ぎ見るようにしている様子が愛らしい。小川清助の代表作である本像は、明治11年(1878年)、清助46歳の作品で、現在確認されている中では彼の最後の作品である。小川清助はこの像を造立した翌々年の明治13年(1880年)12月22日、下田新町で永眠した。法名は雙轉清樹信士。48歳であった。そしてこの「清助」の死とともに、世襲された「石工清助」の名は断絶した。
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