40代の事績とは? わかりやすく解説

40代の事績

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/01/20 06:52 UTC 版)

小川清助」の記事における「40代の事績」の解説

40代清助は、明治10年1873年東京上野公園開催され第一回内国勧業博覧会作品出展し自分技術世に問うている。この時の彼の出展作品は「関羽印」「聨(れん)」「書画」「青石」「石器」の5点いずれも石製品であった考えられ、聨は漢詩書画刻した細長い石版書画同じく石造レリーフ石器は石笛であったとされており、青石何らかの彫刻考えられる詳細不明である。これらの作品は、現在いずれも所在不明となっているが、清助河内諏訪神社狛犬台石に、自分の名とともに精緻な彫り印面刻み込んでおり、ここに見られる印面は「関羽印」を想像する上で参考になるだろう。この時の作品で最も興味深いのは「石器」こと石笛であり、清助はこの石笛で褒賞受賞。現在、清助の子孫の家に褒状のみ現存している。褒状には「軟石ヲ密鐫シテ刀痕鮮明ナリ其石笛ハ発音未タ正律ニ協ハスト雖モ朗爽トシテ渋滞ナキハ鐫鑿ノ宜キニ因ヲ観ル」と受賞理由明記され、これによって失われた石笛が軟石緻密に彫刻したのであること、その笛が音階こそ整っていないものの爽やかな音色奏でたことを知ることができる。笛の種類特定できないが、音階があることから、複数の穴配して音階変えることの出来横笛か、尺八のような縦笛であったのだろう。なお、清助はこれらの作品の他に、球状の石が入った石の壺、石のテーブル、石のコーヒーカップなどを制作したというが、いずれも現存していない。 一方40代清助作品は現在二点が確認されているのみである。そのうち一点下田市横川太梅寺の子安地坐像で、角柱型の尼僧供養塔の上部に、蓮台片足踏み下げて坐す地蔵菩薩の像を刻んだ作品である。地蔵菩薩下膨れで、の繭形を呈する円満な慈悲相を浮かべて正面を見つめ、左腕には赤子抱いている。また、地蔵菩薩の右膝元にも一人童子がいて、地蔵にすがりつきなが温顔仰ぎ見るようにしている様子愛らしい小川清助代表作である本像は、明治11年1878年)、清助46歳作品で、現在確認されている中では彼の最後作品である。小川清助はこの像を造立した翌々年明治13年1880年12月22日下田新町永眠した法名は雙轉清信士48歳であった。そしてこの「清助」の死とともに世襲された「石工清助」の名は断絶した

※この「40代の事績」の解説は、「小川清助」の解説の一部です。
「40代の事績」を含む「小川清助」の記事については、「小川清助」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「40代の事績」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「40代の事績」の関連用語

40代の事績のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



40代の事績のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの小川清助 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS