2000年〜2005年 BMWとのワークス期
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「ウィリアムズF1」の記事における「2000年〜2005年 BMWとのワークス期」の解説
発表された通り、ホンダ、ルノーに続くパートナーとして、F1に復帰したBMWと提携。ル・マン24時間レースでの共同プロジェクトを経て、2000年より2004年までの長期契約を締結した。登録名はBMWウィリアムズF1 (BMW Williams F1) となり、マシンカラーリングもBMWワークスの白と紺を基調としたものに変わった。2000年はシューマッハと、テストで抜擢した新人ジェンソン・バトンのコンビで戦い、シューマッハが開幕戦を含む3回の3位表彰台を獲得し、コンストラクターズ3位となった。 2001年には同じく復帰したミシュランタイヤと組み、タバコスポンサーとの離脱を宣言する活動を進めた。シューマッハが初優勝を含む3勝を挙げ、CARTから加入したファン・パブロ・モントーヤも初優勝するなど、新体制2年目で結果が表れ始めた。2002年はフェラーリに圧勝を許すも、公称1万9,000回転のBMWパワーを武器にモントーヤが5連続を含む7ポールポジションを獲得。タイトルを獲得した1997年に次ぐ成績となるコンストラクターズ2位を獲得を果たした。 2003年は序盤戦は低迷するも、FW25の改良とミシュランとのマッチングにより中盤以降4勝(シューマッハ2、モントーヤ2)を挙げ、最終戦までフェラーリとコンストラクターズタイトルを争い、順位こそ前年に準じた位置であったが、ポイント面ではBMWエンジン時代として最高の成績を記録し、1997年以来最も両タイトルに近づいた年となった。また、好調だったことによりBMWとの関係性も極めて良く、シーズン中の6月にはBMWとのエンジン供給契約が2009年まで延長されることが発表された。 この年を最後にパトリック・ヘッドがテクニカルディレクターを退き、後任にサム・マイケルが就任する新体制となり翌年を迎える移行期となるが、結果的にこの2003年を最後にタイトル争いに関わることがなくなり、チームの凋落が表面化していくこととなる。 2004年はサム・マイケルがTDとして挑む新体制であったが、FW26の特異なハイノーズ(通称「セイウチノーズ」)が失敗し、最終戦ブラジルGPでのモントーヤの1勝に留まった。この年を最後に6年間在籍したラルフ・シューマッハがチームを去るが、シューマッハは後年にウィリアムズ時代について「技術レベルについては素晴らしいレーシングチームだと思う」と断わりを入れた上で、「フランク・ウィリアムズによるチームの管理方法は、常に上から強いプレッシャーをかけるものだった」「あのチームのマネージメントスタイルには間違っていることがすごく多かった」と6年在籍したチームの内情を批判的に述べている。 2005年シーズンはドライバーを一新してマーク・ウェバーとニック・ハイドフェルドが加入したが、前年来のシャシー設計(特に空力部門)の失敗により2000年以来の未勝利、1999年以来のコンストラクターズ順位トップ4からの陥落(5位)という不本意なシーズンに終わった。成績の低迷とチーム運営への方針を巡ってBMWとの関係は悪化。BMWはザウバーを買収してコンストラクターとして参戦することを決意したことから、ウィリアムズとの長期契約は2005年限りで打ち切りとなり、結果的にワークスエンジンとして供給された最後のシーズンとなった。また、この2年に渡りB・A・Rとの間で争われたジェンソン・バトンの契約問題(通称「バトン・ゲート」)は、バトン自身がウィリアムズに多額の違約金を支払いB・A・Rに残留するという結末となった。
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