1993年衆議院議員総選挙
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 06:32 UTC 版)
「田中秀征」の記事における「1993年衆議院議員総選挙」の解説
1993年7月の第40回衆議院議員総選挙では、旧長野1区で3度目のトップ当選を果たした。自民党が過半数を割り込んだため、細川率いる日本新党と新党さきがけは新政権樹立のキャスティング・ボートを握ることとなった。田中は、「自民党政権」か「非自民政権」のどちらにつくか注目される中、思想信条の違う政党の連立政権は臨時・緊急の事態にしか通用しない、経済対策など懸案事項を遅らせている政治改革を早期に処理する「特命政権」として、院内会派「さきがけ日本新党」が「政治改革政権の提唱」という第三の選択肢を打ち出す。昔から数学が得意で、幾何が好きだったが、この時は難問を一気に解く補助線を発見した感じだったという。その考えをワープロで打ってまとめたペーパーを細川護熙と武村正義に見せると、二人とも瞬時に確信、細川はその日のうちに田中がまとめたペーパーを持って小沢一郎に会いに行った。小沢はその場で細川さん、総理になれ」と勧めたという。7月23日に細川が提唱文を読み上げると、各党の対応が明確になり、新生党代表幹事・小沢一郎の動きとは別に、細川内閣樹立の理論的構築を行った。この記者会見では田中も同席する予定だったが、車の渋滞で遅れ細川と武村が読むことになった。 同年8月に発足した細川内閣では武村が内閣官房長官、鳩山が内閣官房副長官に就任する。当初は内閣官房副長官を打診されるも党務を理由に辞退した田中は内閣総理大臣特別補佐に起用され、細川が所信表明演説で用いたキャッチフレーズ「質実国家」を発案した。政権樹立後の8月17日に軽井沢で宮澤喜一と細川護熙の会談を仲介している。この会談には別荘が近い鳩山由紀夫と選挙区である井出正一も同席している。 首相特別補佐の部屋には、記者や官僚など様々な人が集まり、小泉純一郎もよくやってきて、「この政権を長くやってくれ。自民党はそうじゃないと変わらないから。」と言って新聞や雑誌を読んでいた。内外からの規制改革の要請が強まったことから、内閣に「経済改革研究会」を立ち上げ、平岩外四を座長にし、細川とメンバーの人選をした。 1994年1月、政治改革四法の成立を見届けた後、内閣総理大臣特別補佐を辞任。これは細川政権樹立時の「特命政権論」の立場によるもので、細川に対し、政治改革が一応の成立を見た段階での内閣総辞職を勧めていた。国民福祉税騒動の時には、宮澤喜一から「増税というのは、アナウンスするだけで足元の景気を冷やす。」と助言されている。 ただ、いわゆる小選挙区制導入に基づく政治改革には無関心であり、冷戦の終結で世界の政治体制、安全保障、軍事の秩序、グローバル経済が始まり経済のあり方が変化した中で、戦後日本を支えてきた政治、行政が制度疲労を起こしている中で、日本の新しい進路を論じるべきであり、選挙制度改革にかまってばかりいるべきでないという考えだった。中選挙区連記制がいいと公言し、自民党時代に会合で中選挙区連記制がいいのではないかと発言すると、小選挙区の旗を振っていた後藤田正晴 や羽田孜に怪訝な顔をされたという。その理由として、各選挙区で一人を支援する小選挙区だと、候補者はあらゆる団体から支援を受けたいので、あえて政策論争には踏み込まなくなる、その結果として政策の調整はすべて霞が関の官僚に頼るようになり、自民党の政策調整機能は明らかに低下しており、そもそも地方分権を徹底しないで、財源、権限を国が持ったままだと、小選挙区選出議員が予算や許認可の運び屋になってしまうと指摘している。小選挙区推進論者は二大政党信仰、政権交代信仰を持っていたが、英国と違って戦後の日本は二大政党が存在せず、「もともと異なる二つの流れがあって初めて、その間に土手をつくる意味があるのであって、先に川の真ん中に土手を作って、二つの流れを無理に作るのはおかしい。」と批判していた。 同年4月、細川内閣の総辞職に伴い、新党さきがけは非自民連立政権を離脱し、羽田内閣では予算の成立に責任があるので野党にはなれないが、国民福祉税構想や国連安全保障理事会の常任理事国入りで異なる考えを持っていたため閣外協力に転じた。 羽田内閣発足後、日本社会党の村山富市委員長、久保亘書記長が面会に来て、「君が代と日の丸をそろそろ認めようと思っている。」と相談された。「国旗とは、過去の輝かしいことを思い起こすと同時に、逆に大きな失敗を思い出させるものでなくてはならない。もし、社会党がそうなれば、本当にありがたい話で日の丸はみんなの日の丸になる。万国旗の中であんなに明確な国旗はない」と田中が答えると、村山は「いい話を聞いたな。」と久保に言ったという。その後、付き合いを深め、村山を信頼できる人物と思うようになった田中は、全日空ホテルで武村正義、 園田博之に「村山さんを担ごうじゃないか。」と話す。武村と園田は驚いたがすぐ賛同した。すぐに党議で村山首班の方針を決め、田中が記者会見をして発表した。
※この「1993年衆議院議員総選挙」の解説は、「田中秀征」の解説の一部です。
「1993年衆議院議員総選挙」を含む「田中秀征」の記事については、「田中秀征」の概要を参照ください。
- 1993年衆議院議員総選挙のページへのリンク