武村正義
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武村 正義(たけむら まさよし、1934年(昭和9年)8月26日[1] - 2022年(令和4年)9月28日)は、日本の政治家、自治官僚、政治評論家。位階は従三位。
注釈
- ^ 1970年代、滋賀県では、ナショナルセンターを構成する総評、同盟、中立労連、新産別の4労組が先行して統一候補を擁立し、政党がそのみこしに乗るという独自の選挙共闘方式がとられた。その結果、多くの革新首長が誕生した。これをとりまとめたのが日窒アセテート守山工場第1労働組合の専従を離れ、1965年に滋賀地評(総評)の事務局長に就任していた細谷卓爾であった。細谷はまた、国の琵琶湖総合開発計画に反対し、「せっけん運動」に奔走。琵琶湖汚染防止の環境運動に深く関わった[9][10]。
- ^ 「滋賀県土地開発公社の解決については〝目白〟へ十数回通って協力をお願いした」とのちに武村は語っている[13]。
- ^ 当選同期には斉藤斗志二・三原朝彦・村井仁・逢沢一郎・金子一義・園田博之・杉浦正健・中山成彬・新井将敬・石破茂・笹川堯・武部勤・井出正一・村上誠一郎などがいた。
出典
- ^ 『全国歴代知事・市長総覧』日外アソシエーツ、2022年、264頁。
- ^ 武村 2006, pp. 28–30.
- ^ 武村 2006, pp. 31–34.
- ^ a b 高畠通敏 1986, pp. 195–196.
- ^ 国家試験 昭和33年度国家公務員採用上級試験合格者『官報 第9537号』
- ^ 武村 2006, pp. 42–43.
- ^ 武村 2006, pp. 44–52.
- ^ 武村 2006, pp. 54–57.
- ^ 大門信也. “草の根サステイナビリティの論理とその条件―滋賀県粉せっけん運動に着目して―” (PDF). 法政大学. 2021年12月22日閲覧。
- ^ 堀尾法道 (2021年1月26日). “せっけん運動奔走、細谷さんの半生が本に ジャーナリスト関根さん執筆”. 中日新聞 2021年12月22日閲覧。
- ^ a b 武村 2006, pp. 65–71.
- ^ a b c d 高畠通敏 1986, pp. 198–203.
- ^ 「京都新聞」1982年7月7日。
- ^ 『朝日新聞』1988年9月3日付朝刊、2総、2面、「『政治家とカネ』の勉強会 自民若手で発足」。
- ^ 武村 2006, p. 172.
- ^ INC, SANKEI DIGITAL (2018年6月18日). “【平成30年史 政界再編(3)】細川政権263日で退陣…「小沢一郎氏VS武村正義氏」今なお残る怨念 税率7%の腰だめ発言、細川護煕氏「これはまずい」”. 産経ニュース. 2021年4月15日閲覧。
- ^ 「小沢一郎は、アメリカにとっては危険な政治家です」~1月14日孫崎享元外務省国際情報局長インタビュー4 * No. 221 * 2010-02-11 19:27
- ^ 小池百合子『正論』2002年7月号 細川首相退陣の引き金は「北朝鮮有事」だった
- ^ 大森義夫「第六章 北朝鮮ミサイルと日の丸衛星」『日本のインテリジェンス機関』(文春新書、2005年9月)pp.145-159
- ^ 八木秀次「細川政権崩壊引き金は「北朝鮮有事」と明かした小池百合子氏 安全保障観違う人「排除」発想正しい」(産経ニュース、2017年11月10日)
- ^ 三橋貴明のもう経済記事にはだまされない 『検証されない日本財政破綻論』
- ^ 第1回 中期的な財政運営に関する検討会 議事要旨
- ^ 第51回滋賀中部政経文化懇話会 講師に武村正義氏 滋賀報知新聞 2011年11月16日
- ^ 武村 2006, pp. 305–308.
- ^ 西村奈緒美 (2019年11月17日). “「全国首長九条の会」を結成 現職の首長ら131人賛同”. 朝日新聞 2019年11月18日閲覧。
- ^ “改憲阻止 地域で展開 「全国首長九条の会」結成”. 河北新報. (2019年11月18日) 2019年11月18日閲覧。
- ^ “9条守れ 首長ズラリ 一点で協力 「会」を結成”. しんぶん赤旗. (2019年11月18日) 2019年11月18日閲覧。
- ^ “武村正義さん死去 元新党さきがけ代表、非自民連立政権で官房長官”. 朝日新聞. (2022年10月1日) 2022年10月1日閲覧。
- ^ 『官報』第848号8頁 令和4年10月31日
武村正義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 06:10 UTC 版)
非自民連立政権の細川内閣で小沢一郎の強権政治への反発を強める中で、新党さきがけ代表・武村正義との協力関係を深めるようになり、羽田内閣の成立直前に統一会派「改新」が社会党、新党さきがけを外す形で結成されたことにより、共に非自民連立政権を離脱し、以降は共同歩調を取る。羽田内閣の頓挫で政局が混乱する中、武村も村山に首相就任を説得。村山内閣の大蔵大臣に就任して、村山を支えた。村山は「常になんでも相談してきた間柄」と語り、社会党解党後の新党問題に至るまで、協力関係を大切にした。
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