1984年 - 1999年
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「JRA顕彰馬」の記事における「1984年 - 1999年」の解説
1984年から1999年までは下記の選定基準により顕彰馬選考委員会の審議(委員の4分の3の賛成)により決定されていた。 選定条件は以下の通り。 競走成績が特に優秀であると認められる馬(原則としてGI競走に格付けされた重賞競走において3勝以上の成績を収めたもの) 競走成績が優秀であって、種牡馬または繁殖牝馬として、その産駒の競走成績が特に優秀であると認められる馬(上記に準ずる成績を収めた馬であって、GI競走において優勝した産駒が種牡馬にあっては5頭以上、繁殖牝馬にあっては2頭以上のもの) その他、中央競馬の発展に特に貢献があったと認められる馬(国際的に活躍し、中央競馬の評価を高めたもの、又は記録性、話題性、大衆性において中央競馬の発展に特に貢献のあったもの) この方式で最後に選出されたのは、1999年のタイキシャトルである。 1990年には過去の競走馬に対する再度の選考を実施しテンポイント、コダマ、スピードシンボリ、メイジヒカリが選ばれている。これは制度制定時にトウショウボーイを選出したにも関わらず、その宿敵であったテンポイントが選出されなかった事に対して関西圏を中心とする競馬ファンやマスコミ・関係者から批判がずっと繰り返されていた事が大きいとされるが、他にも産駒の活躍、他の選出馬との比較などで最初期の選考の時点と状況が大きく異なる馬が発生していたためである。 また、ダイナナホウシユウ(皐月賞、菊花賞、天皇賞・秋)、タケホープ(日本ダービー、菊花賞、天皇賞・春、グリーングラス(菊花賞、天皇賞・春、有馬記念)のように上記の条件を満たしながら顕彰入り出来なかった馬もいる。特にダイナナホウシユウは今と違い大レースの数も少なく天皇賞が勝ち抜け制度だった時代に八大競走3勝、29戦23勝(うち60キロ以上の斤量で8勝)さらに中央競馬の連勝記録(11連勝)も保持するほどの、時代を代表する名馬だったが、最初に行われた1984年の顕彰馬選考時に選出濃厚とされながら、選考委員のひとりが小柄な馬格を指摘しサラブレッドとしての品格に欠けるとして強硬に反対したため選出されなかった。
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