1891年以降
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「ノース・ブリティッシュ鉄道」の記事における「1891年以降」の解説
フォース鉄道橋開通後、ウェイヴァリー駅の混雑と不適切な設備に関する大きな不評を買っていたノース・ブリティッシュ鉄道は、周辺を開発する合意を取り付け、駅を拡張しカルトントンネルを通り西側をソートン分岐点(現在はコーストーフィンと呼ばれている)まで複々線化することを認める法案が1891年8月5日に通過した。ウェイヴァリー駅の改良工事には時間がかかり、1894年になって工事期限を延長する法律を通過させる必要があった。実際のところ、必要だと判断されていた改良工事がすべて完了するのは1899年になってのことであった。 ミッドランド鉄道は1875年に二等車を廃止し、ノース・ブリティッシュ鉄道も長い熟考の末、1892年5月1日からイングランド直通列車を除き二等車を廃止した。 1895年の7月から8月にかけて、イングランド側の提携会社は西海岸と東海岸でロンドンからアバディーンへ至る最速到達時間を競いあった。この出来事は大衆の想像をかきたて、北への競走として知られるようになった。特別な軽量列車がこのために運転された。ノース・ブリティッシュ鉄道はいくつかの理由で、この競走に参加することに消極的であった。まず、そうした列車を走らせる費用が、広報宣伝の効果に見合うか懐疑的であった。またベリックからエディンバラまでの運行権をめぐってノース・イースタン鉄道に対する悪感情が依然として存在した。さらにノース・ブリティッシュ鉄道は、カーライルにおいて提携しているミッドランド鉄道を怒らせたくなかった。ミッドランド鉄道のロンドンからカーライルまでの路線はさらに条件が悪く、この競走には参加していなかった。 1896年11月に、ノース・ブリティッシュ鉄道はベリックとエディンバラの間での運行権をめぐってノース・イースタン鉄道を民事控訴院に訴えた。ノース・ブリティッシュ鉄道は、ボーダー・カウンティーズ鉄道の形成期に自発的な意思で運行権に合意していた。民事控訴院はノース・ブリティッシュ鉄道敗訴の判決を下し、問題は貴族院(当時イギリスの最高裁判所の機能を有していた)に持ち込まれた。貴族院はこの件を鉄道運河委員に照会し、あいまいな判断を下した。このあいまいさはノース・ブリティッシュ鉄道にとって十分であり、1897年1月14日からベリック以北のすべての列車の運行権を取り返した。これはすべての長距離旅客列車がベリックにおいて機関車交換をすることを意味し、ベリックの線路配置はその目的には不便であった。ノース・イースタン鉄道は駅のすぐ南端まで線路を所有しており、機関車交換の作業ができる限り難しくなるようにしていた。 新しい軽便鉄道関連の法制を利用し、鉄道のなかったラウダーの町が支線を獲得し、1901年7月2日にラウダー軽便鉄道(英語版)が開通した。 エディンバラ郊外から都心への通勤輸送需要に対応して、ノース・ブリティッシュ鉄道はコーストーフィン支線を1902年2月2日に開通させた。長らく本線上にコーストーフィン駅があったが、この時点でソートンに改称された。 キンカーディンは港として発展しつつあり、またフォース川沿いでアロアの東にある農業地帯は鉄道の便がないと判断された。ノース・ブリティッシュ鉄道はアロアからキンカーディンまでの支線を1893年に開通させた。この地域は完全に農業地帯であったが、鉄道路線の間隙を埋める需要に対応してノース・ブリティッシュ鉄道はキンカーディン・アンド・ダンファームリン鉄道を建設し、1906年に開通させた。
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