18世紀から19世紀の宗教と観光
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「セント・キルダ」の記事における「18世紀から19世紀の宗教と観光」の解説
18世紀にセント・キルダを訪れた船から、コレラと天然痘がもたらされた。1727年の人命の損失はひどく、生き残ったごくわずかな住民はボートに乗っていた者だけだった。減少した住民を補うため、ハリス島から新たな世帯がセント・キルダへ渡った 。1758年、人口は88人に増え、世紀末までに100人近くに達した。この人口は18世紀から一定の状態にあった。1851年、36人の島民がプリシラ号に乗船してオーストラリアへ移住していった。この人口減を島が取り戻すことはなかった。移民は、1843年の分裂(en)によってスコットランド自由教会が設立された数年間、教会と牧師館におけるレアード(en、男爵以下でエスクワイア以上とされたジェントリ階級のこと)締め出しへの応答であった。 人口減少の要因の1つはこのように宗教の影響を受けていた。1705年、アレグザンダー・バカンという宣教師がセント・キルダにやってきた。しかし彼の長期滞在にもかかわらず、組織化された信仰理念が受け入れられることはなかった。この状況を変えたのが、「北の使徒」と呼ばれたジョン・マクドナルド牧師が1822年にやってきた時である。彼は熱意を持って自らの使命を定め、島に到着してから11日間で13もの長い説教を行った。個人的にマクドナルドは住民の宗教的な知識が欠けていることに愕然としていたが、彼は定期的に本土へ戻って、セント・キルダ住民のために資金を調達してきた。島民たちは熱心に彼を好きになった。そして8年間を過ごしてマクドナルドが島から去ったとき、人々はむせび泣いた。1830年7月3日に到着したマクドナルドの後任、ニール・マッケンジー牧師は住み込みのスコットランド教会の聖職者で、住民の環境を大幅に改善した。彼は島の農業を再編し、村の再建に尽力した。そして新しい教会と牧師館の建設を監督した。ゲール語学校協会から支援を受けて、マッケンジーと彼の妻はヒルタ島に正式な教育を導入し、読み・書き・算数を教えるための毎日の通学を開始した。そして日曜学校では宗教教育を行った。 1844年、マッケンジーは任期を終えてセント・キルダを去った。マッケンジーは多くのことを成し遂げたが、外部の権威に依存するセント・キルダ住民の弱点は1865年のジョン・マッカイ牧師の赴任とともに露出した。マッケンジー牧師への好意として島民はスコットランド教会にとどまったにもかかわらず、教会分裂の混乱の時代にセント・キルダ住民は新たにできた自由教会への好意を公にしたのである。新しい自由教会の牧師マッカイは、珍しく宗教的儀式に重点を置いた。彼は、日曜日に3種類の2時間から3時間の奉仕の日課を導入し、出席は事実上強制となった。ある訪問者は1875年にあることを指摘している。「安息日は耐え難い暗い日だった。鐘が鳴る音で全員が悲しそうに目を地面に向け教会に群れ急いだ。これは、右や左に視線を移すことは罪深いとみなされたからだった。」 宗教上の集会に費やされる時間が、島の実用的な日課を深刻なまでに損なわせた。教会内で物音をたてる老婦人や子供たちは長く説教を聞かされ、死後の世界で悲惨な処罰を課されると警告された。島が食糧不足になった期間、救援の船が土曜日に到着したが、聖職者は島民たちに、安息日の教会のために一日準備せよと命じたので、物資が上陸できたのは月曜日だった。子供たちは遊びを禁じられ、どこに行くにも聖書を携帯させられた。マッカイは24年間セント・キルダに滞在した。 観光は、宗教とは異なるが、やはり同じくセント・キルダに不安定な影響を与えた。19世紀になり、蒸気船がヒルタを訪れるようになり、島民はツイード編みや鳥の卵を売って金を稼ぐことが可能になった。しかし観光客がそれらを珍品と扱い、島民は自尊心を犠牲にしなければならなかった。船の到来はかつてなかった病気の流行をもたらした。特に破傷風である。このため19世紀後半、乳児死亡率が約80%にもなってしまった。cnatan na gallまたはボート咳という病気が、ヒルタに船が入ると広まり、生活の規則的な症状となった。 20世紀の転換点にくると、正式な学校教育が再び島の特徴となった。そして1906年に教会は校舎を作るため拡張された。子供たちは今や全員が英語と母語であるゲール語を学んだ。マッカイ牧師によって島へ来ることを拒否されていた助産師の能力が改善され、小児破傷風問題が減少した。1880年代から、北大西洋で漁をするトロール漁船が定期的に島に停泊するようになり、さらなる貿易をもたらした。マッカイ牧師任期中の1875年に避難の話が持ち上がったが、時折の食糧不足と1913年のインフルエンザ流行にもかかわらず、人口は75から80の間で安定していた。数年以内に千年続いた島の歴史が終焉を迎えるという明らかな兆しは見えていなかった。
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