1614年、都市に昇格
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「ペンザンス」の記事における「1614年、都市に昇格」の解説
ペンザンスが15世紀から17世紀にかけて比較的発展した理由は、おそらくイングランド王ヘンリー4世が1404年にペンザンスでの市場開催を認めたことに起因しているであろう。ヘンリー8世は1512年に港に課税する権利を認め、ジェームズ1世は1614年に都市としての地位を認めた。この勅許状では、市の境界をグリーンマーケットにある市場の十字票から半マイル(約0.8 km)の円を描いた人工的な線と定めていた。都市として認められたことにより州裁判所の管轄から独立することになり、1888年に州議会が設置されるまでこの権利が保持されていた。他の特権としては、土地や財産を所有すること、条例違反に罰金を科すこと、罰金が50ポンドを超えない事件を管轄する市裁判所を設置すること、刑務所を設置することなどが挙げられる。またこの勅許状では、1512年に認められていた港への課税権を再確認するとともに、それまで市場が毎週水曜日に開かれていたのを、火曜日と木曜日の週2回にすることも認めた。7回の祭りが認められ、あるいは確認された。 聖体の祝日 - 聖霊降誕祭の後の日曜日、今でも開催される。 聖アンデレの日の前の木曜日 聖ペトロの日(8月1日) - 1332年に認められた。 聖バルテルミの日(8月24日) - もともとはマウゼルに認められていたものであったが、1595年のスペインの襲撃(コーンウォールの戦い(英語版)によって廃れたものと思われる。 聖マリアの日(9月8日) - 1404年に認められた。 処女懐胎の日(9月8日) - 1404年に認められた。 St Peter's Day in Cathedra (2月22日) - 1404年に認められた。 国王は、この勅許状で認めた権利の対価として年3ポンド6シリング8ペンスを受け取ることになっており、これは1832年まで実際に支払われていた。しかし議会における代表権は認められていなかった。 ペンザンスのかつての紋章は、洗礼者ヨハネの首が大皿の上に描かれ、"Pensans anno Domini 1614"(ペンザンス 西暦1614年)という銘が入ったものであった。市の紋章は、アージェント(銀白)の神の小羊の下にアジュール(青)のマルタ十字、上部にオーア(金)の上向き2本鍵の斜め十字とアージェントの斜め十字に囲まれた、ギュールズ(赤)の下向き短剣が描かれたものである。 都市に昇格してから1年以内に、アルバートン荘園からの本質的な自由を34ポンドと以降毎年1ポンド払うことによって買い取った。この年間1ポンドは1936年まで払われていた。市場の建物とギルドホールが建設され、1615年に買い取った権利とともに、以降ほぼ2世紀以上にわたって市の収入源となった。1512年に建設された最初の埠頭に追加で、南側の岸壁が1766年に建設され、1785年に拡張された。 イングランド内戦の際には、王党派のジョージ・ゴーリング(英語版)やラルフ・ホプトンの軍勢に便宜を図ったことが明らかな理由となって、トーマス・フェアファクス率いる議会軍に襲撃を受けた。 さらなる土木的な改良としては、1759年に貯水池が建設されて通りの公共水道に水が送られるようになったことが挙げられる。 ペンザンスは長年、マドロンの教会区との関係があった。マドロンの教会は実のところ、1871年までペンザンスのほとんどの宗教的活動の中心であった。この年に、それまで分会堂(英語版)であったセント・メアリーズ教会が教区教会として認められた。この新しい教会が1832年に建設された時から登録自体はされていた。
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