18世紀から19世紀初頭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 02:13 UTC 版)
「ピテシュティ」の記事における「18世紀から19世紀初頭」の解説
1714年11月、スウェーデン帝国が北方戦争においてロシア帝国に敗退するのが濃厚となり、スウェーデン王カール12世はスルタン・アフメト3世との同盟を望むが、不発に終わった。イスタンブールからの帰途で、王はアクセル・スパール指揮下の軍隊と遭った。3週間の滞在の後ピテシュティを通過すると、ハプスブルク家支配地域を通過してスウェーデン領ポメラニアへと向かった。オーストリア=トルコ戦争の最中、ハプスブルク軍はピテシュティを攻撃して陥落させた。ピテシュティは1737年から1739年のロシア・オーストリア・トルコ戦争で再度戦場となった。 1780年、トスカーナ大公国の貨幣学者ドメニコ・セスティーニはアルジェシュ地方を通過し、ピテシュティには250軒の家と7つの教会があると記した。1804年、市民は高等学校の開設を要請(当時の教育用言語であるギリシャ語での講義を依頼した)した。この要請は、コンスタンティン・イプシランティス公によって打ち消された。1790年代、ピテシュティをルイージ・マイエル(ジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージのドイツ人門下生)が訪れ、彼はこの地方を描いたエッチング画を残した。これらの絵は1810年にロンドンで画集として発行された。 ピテシュティの町は1821年ワラキア蜂起、ギリシャ独立戦争に関連した事件のために、重要な地位を占めていた。1821年晩春、ワラキア反乱の指導者トゥドル・ウラジミレスクはブカレストを退却してこの町に移った。彼の属する秘密結社フィリキ・エテリアの同志たちから戦線離脱を疑われていた(彼はバイレシュティの地元民に捕らわれ、すぐにフィリキ・エテリア指導者アレクサンドル・イプシランチの命令で処刑された)。
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