18世紀から第一次世界大戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 06:05 UTC 版)
「リエージュ」の記事における「18世紀から第一次世界大戦」の解説
スペイン継承戦争中の1702年、イギリス軍総司令官マールバラ公ジョン・チャーチルはバイエルンの司教君主と同盟軍のフランス軍統治下のリエージュを占領した。18世紀の中ごろ、フランスの百科全書派の考えがリエージュに広まり始めた。ヘンズブレヒのフランソア・シャルル(Bishop de Velbruck、1772年~1784年)は布教を奨励し、これは、リエージュ革命の元となった。このリエージュ革命は、1789年8月18日に司教都市において発生した。1794年のフランス革命戦争で、フランス軍は都市を占領し、強硬な反宗教的な体制を押しつけた。そして、聖ランバートの大きな大聖堂を破壊した。1801年に司教君主と言う不自然な地位に関して、ナポレオン・ボナパルトと教皇ピウス7世によるコンコルダートにより廃止が確約された。1815年に、フランスはリエージュをウィーン会議により失い、ネーデルラント連合王国が恩賞として手に入れた。ネーデルラントの支配は1830年まで続き、独立革命により、カトリックを宗教とするベルギーの一部となった。この後、リエージュは主要な工業都市として発達し、ヨーロッパで最初に、大規模な鉄鋼生産が行われるようになった。 リエージュの防備は1880年代にアンリ・アレクシ・ブリアルモン(Henri Alexis Brialmont)により再設計された。これは、都市の周りに12個の要塞のネットワークを構築し、深層防御を可能とした。これは、1914年、ドイツ軍がフランスへのルートとして、ミューズ川とアルデンヌを通り抜けるという、シュリーフェン・プランを使用した際に大きな障害となった。1914年8月5日、侵攻したドイツ軍はリエージュに到達した。 そこでは、ジェラール・ルマン(Gérard Leman)将軍の元、3万人の将兵が防衛をしていた(リエージュの戦いを参照)。要塞は、最初約10万の兵士により攻撃されたが、その攻撃は失敗した。その後、ドイツ軍の42cmビッグバーサ榴弾砲による5日間の砲撃によって破壊された。主要な要塞に隣接する地下のトンネルにおける換気の設計に問題があり、砲弾の直撃が大爆発を引き起こし、ベルギー軍の降伏を引き起こした。ベルギー軍の抵抗は予想より短かったが、そこでの12日間の浪費はフランスへのドイツ軍の侵攻において大きな問題となった。都市は終戦までドイツにより占領された。リエージュは1914年にその防御戦闘に対する栄誉としてレジオンドヌール勲章を受けた。
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