高野山電気鉄道在籍時
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「高野山電気鉄道101形電車」の記事における「高野山電気鉄道在籍時」の解説
新造時は高野下以南の自社線内のみの運行であったが、南海鉄道への乗り入れ開始後は難波 - 極楽橋間の直通運転(通称「大運転」)の主力となった。1943年に南海鉄道の堺東車庫の火災でデ101が全焼したが、焼け残った構体を利用して復旧された。ただし、資材不足の時期であったことから半鋼製車体、片隅式運転台、ヘッドライト1個となった。このほか戦時中にデ105・107が正面衝突により破損して走行不能となる、といったトラブルが発生したが、全車戦災に遭うことなく戦時を乗り切った。 この間1944年に南海鉄道が戦時統合により近畿日本鉄道(近鉄)の難波営業局となっていたが、高野山電気鉄道は統合の対象外であったため相互乗り入れの相手社名が変わっただけであった。終戦時は相互乗り入れは縮小され、近鉄の橋本駅 - 極楽橋駅間の折り返し運転に使用されていた。 戦後になって1946年にデ103・104の2両が難波営業局の車両不足を理由として近鉄に移籍し、モハ561形561・562(いずれも初代)となった。この形式は南海鉄道時代以来の搭載主電動機出力を冠する形式命名ルールに従って与えられたものであった。これら2両は1947年6月に南海と近鉄が分離することとなったため、帳簿上の処理を簡素化すべく、事前に高野山電気鉄道に復籍、旧車番に戻された。南海と近鉄の分離にあたり、その準備として1947年3月に高野山電気鉄道は南海電気鉄道と社名変更したためこの時点でデ101形・デニ501形とも南海所属となったことになるが、実態としては同年6月に南海電気鉄道が近鉄から難波営業局所属路線を譲渡された時点で両形式とも高野山電気鉄道から南海に引き継がれたといえよう。
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