駕籠訴決行
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江戸金森藩邸に直訴した農民たちの監禁を強行した郡上藩は、郡上でも検見取を強行し、反対する農民たちを片っ端から投獄していった。藩側の激しい弾圧によって一揆勢から脱落する農民が相次ぎ、農民たちの間でも一揆を続け検見取をあくまで拒む立者と、一揆から脱落し藩側に立つ寝者とに分断されてしまった。 一揆勢は歩岐島村の四郎左衛門らを中心に策を練り直し、やはり公儀への直訴を行う決意を固め、改めて直訴を行うために農民たちが郡上から江戸へと向かった。 藩側の拘束を逃れた定次郎と喜四郎、そして新たに江戸へと向かった農民たちの中から四名の計六名は、直訴状を携え酒井老中の江戸城登城を待った。早足で通り過ぎる酒井老中の行列に六名の郡上農民が必死に追いすがり、酒井老中を護衛する武士たちに投げ飛ばされたり蹴飛ばされながら、定次郎の必死の訴えが響き渡る。その時、老中の駕籠が停まった。訴状は酒井老中の手に渡されたのだ。 老中への直訴が行われたことを聞きつけた藩主の金森頼錦は狼狽した。一揆の件で吟味が行われれば自分たちにも火の粉が降りかかってこないとも限らない。金森頼錦は吟味を担当する町奉行の依田和泉守に手を廻すよう指示した。依田町奉行はこの事件を追及すれば大事になりかねないと判断し、うやむやに済ます方針を固めた。 そうとも知らぬ定次郎と喜四郎らは、町奉行から判決が下る日を待ち続けた。数ヶ月が経ち、定次郎ら直訴を行った農民たちは依田町奉行から「郡上にて村預けとする」との言い渡しを受けた。命を捨てる覚悟で老中への直訴を決行し、郡上には二度と戻れないと思っていたものが郡上での村預けとの裁定、しかし肝心の年貢徴収法については裁きが出ていない。 その晩、定次郎は荒れた。肝心の検見取取り止めを勝ち取ることなくどうしておめおめ郡上へと戻れようか。ここは幕府の命に従って郡上に戻るべきと喜四郎は定次郎を説き伏せようとするが、あくまで納得しようとしない定次郎と殴り合いになる。殴り合っている両者を他の仲間たちが割って入った。
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駕籠訴決行
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江戸に到着した杉本左近は、公事宿である上野町上州屋新五郎方に宿を定めた。左近は上州屋新五郎方で石徹白から追放された社人84名連名の訴状を書き、宝暦6年8月4日(1756年8月29日)、駕籠で登城する老中松平武元の行列に訴状をもって飛び込むという駕籠訴を決行した。訴状は受理され、駕籠訴を行った杉本左近は当面上州屋新五郎方に宿預けとされた。しかし訴えが神社に関することであるとして、訴状は宝暦6年8月21日(1756年9月15日)に、寺社奉行の本多忠央に回された。宝暦4年(1754年)8月の越訴時とは異なり、今回は老中から回ってきた訴えであったため、本多寺社奉行は改めて金森家に訴状を回すことは出来ず、吟味を開始せざるを得なかった。 宝暦6年(1756年)閏11月、石徹白豊前が江戸に呼び出され、吟味が開始された。しかしその後吟味は進まず、事態は全く動かなかった。
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駕籠訴決行
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宝暦5年11月26日(1755年12月28日)、東気良村善右衛門、切立村喜四郎、前谷村定次郎、東気良村長助、那比村藤吉の願主5名に高原村弁次郎を加えた6名は、駕籠訴を決行するために老中酒井忠寄の江戸城登城の行列を待った。酒井老中の行列が現れると、訴状を提出しようと老中が乗った駕籠に駆け寄った。供の侍らに蹴散らされながらも、大声で泣きながら訴える声を聞きつけた酒井老中から声を掛けられたため、「美濃国郡上の百姓で、御訴訟願い奉る」と訴状を差し出した。酒井老中は駕籠訴人らの宿所を尋ね、自らの邸に連れて行くよう命じた。 老中酒井忠寄の邸で帰宅を待っていた駕籠訴人は、夕刻の老中帰宅後に訴状が受理され、明日宿の主人とともに出頭するように伝えられた。宝暦5年11月27日(1755年12月29日)、宿の主人である秩父屋半七とともに出頭した駕籠訴人は、老中酒井忠寄から事情聴取を受けたあと、遠いところからやってきたので宿でしばらく休息するようにとの言葉をかけられた。 なお江戸時代を通じ、老中など幕府要人の駕籠に直訴を行ういわゆる駕籠訴はしばしば見られたが、駕籠訴という言葉が初めて用いられたのは、郡上一揆における宝暦5年11月26日(1755年12月28日)の老中酒井忠寄に対して行った直訴が最初であり、越訴という言葉もほぼ同時期に定着することから、宝暦から天明期にかけて一揆や騒動の訴訟で越訴、そして駕籠訴という方法が多く用いられるようになったものと考えられる。 また駕籠訴の実行は、東気良村善右衛門、切立村喜四郎、前谷村定次郎、東気良村長助、那比村藤吉の願主5名に加えて高原村弁次郎が参加したと考えられるが、弁次郎は土地を持たぬ水呑百姓であったため、正式な駕籠訴人とは認められなかった。そのため駕籠訴の後も、他の5名の駕籠訴人と異なり村預けの処分も下されることなく、一揆勢の江戸への飛脚などとして活躍を続け、後の評定所による裁判の際も罪を免れることになった。
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