駐蒙軍司令官としてとは? わかりやすく解説

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駐蒙軍司令官として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 08:15 UTC 版)

根本博」の記事における「駐蒙軍司令官として」の解説

1944年昭和19年11月駐蒙軍司令官に就任。翌1945年昭和20年8月ソビエト軍満州侵攻は、8月15日日本降伏後止まらず同地域の日本人住民4万人の命が危機晒されていた。ソビエト軍への抗戦罪に問われる可能性もあったが、生長の家信仰していた根本は『生命の実相』よりそのような形式とらわれる要はないと考え、罪を問われた際は一切責任負って自分が腹を切れば済む事だ覚悟決め根本は「理由如何を問わず陣地侵入するソ軍は断乎之を撃滅すべし。これに対す責任一切司令官が負う」と、日本軍守備隊に対して命令下した途中幾度停戦交渉試みるが攻撃止まないソビエト軍対し何度も突撃攻撃繰り返しソビエト軍攻撃食い止めながらすさまじ白兵戦繰り広げた。更に八路軍人民解放軍前身)からの攻撃にも必死に耐え、居留民4万人乗せた列車線路守り抜いた一方根本中国国民党軍傅作義連絡とっていた。 8月19日から始まったソビエト軍との戦闘はおよそ三日三晩続いたものの、日本軍必死反撃ソビエト軍戦意喪失した為、日本軍8月21日以降撤退開始最後部隊27日万里の長城帰着した出迎えた駐蒙軍参謀長松永留雄少将は「落涙止まらず慰謝の念をも述ぶるに能わず」と記している。一方20日内蒙古脱出した4万人日本人は、三日三晩掛けて天津脱出したその後引揚船乗るまで日本軍政府関係者は彼らの食料衣服の提供に尽力した引揚の際、駐蒙軍野戦鉄道司令部は、引き揚げ列車への食料供給苦心していたとされる8月17日頃から、軍の倉庫にあった米や乾パン先に沿線の各駅にトラック大量に輸送していた。 一方満州では関東軍8月10日居留民の緊急輸送計画したが、居留民会が短時間での出発大混乱を招く為に不可能と反対し、11日になってもほとんど誰も新京駅現れず、結局軍人家族のみを第一列車乗せざるを得なかった。これが居留民の悲劇呼んだと言われる。また山西省では一部日本軍在留邦人残留し戦後問題となった中国山西省日本軍残留問題) 尚、前任下村定陸軍大将最後陸軍大臣になった事を受けて8月19日北支那方面軍司令官兼任する1946年昭和21年8月根本最高責任者として、在留日本人内地帰還北支那方面35将兵復員を終わらせ、最後の船帰国した終戦時中国大陸には日本軍人軍属一般市民合わせて600万人いたが、蔣介石日本軍引き揚げ協力的で、本来ならば自国軍隊輸送最優先せねばならない鉄道路線可能な限り日本軍及び日本人居留民輸送割り当てた日本軍降伏調印式と武装解除中国側数名将官が来ただけという珍事もあった。 ソビエト軍占領下になった満州や、山西省でのケースを除くと、日本側は最低でも10年はかかると予測していた中国大陸からの引き揚げ10ヶ月完了した衆議院議員大久保伝蔵引揚受け入れ港の視察南方満州朝鮮からの引揚者が裸同然だったに対して中国本土からの引揚者そのようなことがなく、手荷物持っていたことに驚いている。

※この「駐蒙軍司令官として」の解説は、「根本博」の解説の一部です。
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