駐米大使館付武官
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1925年(大正14年)12月、駐米大使館付武官となって、再びアメリカに滞在する。山本の航空隊在任は1年3か月であったが、「天洋丸」に乗船してアメリカに向う山本の頭上を、航空隊の部下達が編隊を組んで見送った。天性の物腰柔らかな態度を買われてアメリカに赴任した山本は英語力に磨きをかけるとともに、書道の腕前でアメリカの海軍士官やその妻たちを楽しませた。信じられないようなスピードで絹布の上に漢字を描いてみせたからである。 この際にも再びアメリカの石油や自動車、航空機や船舶などの生産や流通体制を視察、研究し、この経験が後の対米戦の戦略立案に大きな影響を与えた。 1927年(昭和2年)8月24日、美保関事件で軽巡洋艦「神通」艦長・水城圭次が自決した際、駐米武官・伊藤整一が「死んでは意味がない」と述べたところ、山本は「死を以て責に任ずるという事は、我が武士道の根本である。その考えが腹の底にあればこそ、人の長としても御勤めができる。そういう人が艦長に居ればこそ、日本海軍は大磐石なのだ。水城大佐の自決は立派とも言えるし、自分としては当然の事をやったとも考えて居る。君の様な唯物的考えは、今時流行るのかも知れぬが、それでは海軍の軍人として、マサカの時に役に立たぬぞ」と叱りつけている。
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