領邦国家の確立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/06/15 07:28 UTC 版)
ローマ崩壊後の混乱が一段落し、欧州の覇権を多民族の連合体であるフランク人が握ると、彼らが打ち立てたフランク王国はその支配を確立すべく各地へ軍を送った。バイエルンも例外ではなく、バイエルン人の豪族達は似たような立場にあったサクソン人らと共にフランク王国軍に頑強な抵抗を見せたが、カロリング朝の代になって遂に屈服した。とはいえ地方分権を軸としたフランク王国の統治においてバイエルン人は一定の独立を認められ、その王はバイエルン大公に封ぜられた。だが独立心旺盛なバイエルン人はこれに納得せず、イタリアの領有をフランク人と争っていたロンゴバルド人と同盟を結ぶなど反フランク的な姿勢を崩さなかったので、カール大帝によって時の大公タシロ3世が追放されバイエルン大公家が滅ぼされるという厳しい弾圧が行われた。 その後、バイエルン地方は新たに別のフランク貴族に封土として与えられ、バイエルン人の特権的地位は剥奪されたかに見えた。しかし多民族共生を基調とするフランク王国は中央集権化の一方で部族法典を制定し、各支配民族の自治権を改めて認めた。これにより政治的独立を保障されたバイエルン人は次第に王国内での発言権を増す方向へと志向を変え、そうした流れから東方への殖民活動を活発化させ「オストマルク」へと領域を広げた。このオストマルクこそが後のオーストリア地方であり、バイエルン人が南ドイツで支配的な民族となる重要な契機となった。 フランク王国が崩壊すると、後裔国家の一つとしてゲルマニア地方を継承した東フランク王国はレーゲンスブルクを首都に据えたので、バイエルン地方は王国の中心地として大いに栄えた。しかし東フランク王国のそのものはフランク人貴族が主導しており、またそれ故にフランク王国の再建に固執し外征を繰り返した為、地方の統制が緩んでむしろバイエルン人の政治的独立が進んだ。フランク人の王家が断絶すると程無く多民族の共同体であったフランク人の結束は崩れ、周辺民族に吸収されて消滅する。フランク亡き後の王国はかつての支配民族の合議によって運営され、フランケン人の大公コンラートが王に選ばれ、次いでサクソン人の大公が王とされた。これに不満を持ったバイエルン人は自分達の君主である大公アルノルフを候補に立てるが、敢え無く失敗に終わってしまう。これ以降、神聖ローマ帝国と名を改めた王国の中で常にバイエルンは冷遇される立場に追い込まれ、不遇の日々を送る事になる。
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