雲の峰いくつ崩れて月の山
作 者 | |
季 語 | |
季 節 | 夏 |
出 典 | |
前 書 | |
評 言 | くわしくは知りませんが、月山を死の山と云うのだそうでございます。鳥海山を生の山、湯殿山を恋の山、または恋の霊地と呼ぶのだそうでございます。芭蕉も湯殿山のことを「語られぬ湯殿にぬらす袂かな」と詠じておりますように、胎児が生れ出る女体の神秘をご神体にしたものでありますから、ぬれとか、語られぬ、など一句のなかで使ったものと思われます。 元禄二年六月八日(陽暦七月二十日)「息絶(え)身こごえて頂上に臻れば、日没て月顕る。笹を鋪(き)、篠を枕として、臥て明るを待(つ)。日出て雲消れば、湯殿に下る。」二千米の高度、東北であること、夏でも雪の消えることのない事を考えますと、小屋の中は気温7度前後かと思われます。歯の根も合わず夜を過したことでしょう。なぜ夕刻の到着のような計画をたてたのか。曾良が記しております。「雲晴テ来光ナシ。夕ニハ東ニ、旦ニハ西ニ有由也。」霧が出なければ残念ながら日輪を背負う我が影を見ることができません。早朝のご来光はあきらめましたが空は快晴、最高の登山日和であったと思われます。 地元の人々は月山とも月の御山とも云い、このまろやかな形の山を信仰の対象としていたようでございます。 死こそ我々ひとりひとりに唯一あたえられたのではありませんか。生れては消え、生れては消え。雲の峰が生れては崩れゆく様を芭蕉も感じて作った句だと思います。 月読尊を祀るこの山をまたの名を臥牛山と呼び豊沃な庄内平野を流れる川は、ほとんど月山から出ているのでございます。あの最上川でさえ肘折の渓谷から流れ入っているのです。もし芭蕉が頂上で日輪を背負った我が影を見たのならどれほどの名句が生れていたことでしょうか。 |
評 者 | |
備 考 |
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