近代の交通
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 20:18 UTC 版)
1883年に中山道経由の鉄道(後の高崎線)が開通すると、埼玉県の大動脈は名実ともに中山道ルートとなり、川越は大きく出遅れることとなった。新河岸川の舟運は栄えていたものの鉄道には敵わないため、新河岸川に頼る川越及び飯能・山梨方面の商人が、川越と東京を結ぶ鉄道敷設に尽力した。1890年に「川越鉄道布設仮免状願」が提出されたが、多くは狭山・所沢・飯能方面の商人が名を連ね、川越の商人の名は無かった。 これに先立つ1889年、甲武鉄道(後の中央本線)が開通すると、山梨からの輸送が直接東京へ運べるようになり、川越を経由する必要がなくなった。しかし、川越及びその周辺からは新河岸川を経由するか陸路を通るかであったため、川越から野田・入間川・所沢・東村山を経て国分寺で甲武鉄道に合流する鉄道を計画した。この鉄道は「川越鉄道会社」を称したが、新河岸川舟運に頼り切っており、川越に集積されていた物資が鉄道沿線に流れるのを恐れたことから、川越商人の名は無かった。 1895年に川越(川越駅、現本川越駅)と国分寺を結ぶ鉄道(川越鉄道、後に西武国分寺線を経て現在は西武新宿線)が開通した翌年には川越と大宮を結ぶ乗合馬車が開通し、さらに1906年には川越の久保町と大宮が電車で結ばれる(川越電気鉄道、後の西武大宮線)。そして1915年にはと池袋を結ぶ鉄道(東上鉄道東上線、後の東武東上線)が開通した。駅は開業時に川越町駅(現川越市駅)と高階駅(現新河岸駅)が、翌年には川越西町駅(現川越駅)が作られたが。いずれの駅も当時の街のはずれであった。さらに1940年には八高線の高麗川駅から川越を経て大宮駅を結ぶ国鉄線(後のJR川越線)が開通し、現在の路線網が完成した。また、国鉄線の開通に伴って川越西町駅が川越駅へと改称し、元の川越駅が本川越駅へと改称した。 東上線の開通に伴って、それまで新河岸川を経由していた舟運が鉄道へと変わり、次第にさびれていった。1910年の大水害後の改修工事や、1923年の関東大震災による東京湾周辺の舟の焼失と同地への舟の売却を経て、そして1931年の改修工事で全川が通船不能となったため、285年に亘って続いた舟運は終わりを迎えた。
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