越後長岡藩上席家老 山本氏
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「三河山本氏」の記事における「越後長岡藩上席家老 山本氏」の解説
越後国長岡藩家老・山本帯刀家は三河牛久保六騎以来の家とされるが、その沿革には徳川家への仕官など曲折があった。永禄8年(1565年)に稲垣長茂らと共に家康の御家人に列したとの記述があるが、それ以降は山本帯刀に関する史料が乏しいためその動向があまり詳細ではない。 しかし深溝松平家の松平家忠の日記『家忠日記』には、天正13年(1585年)12月晦日の条で当時岡崎城代であった本多作左衛門重次の歳暮音信の訪問を受けた人物として本多豊後守広孝、内藤平左衛門(某)と共に山本帯刀の名が見える。また天正18年(1590年)の小田原征伐では徳川方陣立ての中に陣場奉行として参陣した(國學院大學の煎本増男による[要出典])。また、関ヶ原合戦図屏風(徳川美術館蔵)の中にもその姿が描かれている(参照→関ヶ原合戦図屏風(徳川美術館蔵)中の山本帯刀、「厭離穢土欣求浄土」の旗の左方に見える。)。 さらに前掲『家忠日記』文禄元年(1592年)3月16日(旧暦)の条で江戸普請奉行として天野清兵衛と共に記述され、松平家忠に江戸普請に来るように要請している。文禄元年当時、山本帯刀は下総国佐倉内で1000石を知行していたとされる。これらの事柄から山本帯刀(成行)は越後長岡藩山本家の所伝のとおり、文禄年間までは徳川家直参旗本であったと推定される[要出典]。 天正18年(1590年)に、牧野氏が牛久保城主から、大胡城主、2万石に栄転すると、山本成行(帯刀左衛門)は、牧野康成の家老(2,200石)に、就任した。成行は慶長9年(1604年)7月10日大胡にて死去その地に埋葬、その夫妻の墳墓は群馬県前橋市大胡の有鷲山長興寺に造られた。 牛久保城主の牧野氏の所領は7,000石程度と推定されている[要出典]が、大胡城主となった牧野氏2万石では、元和元年(1615年)当時に徳川直参であった稲垣氏(平助家)の家禄(2400石)は含まれないと考えられるが、山本氏(帯刀家)の家禄(2,200石)は支給内訳が不明であるものの、上記の通り、文禄元年までは徳川家の普請奉行として1,000石の公儀支給を受けていた。それゆえに、江戸時代に越後長岡藩家老・山本氏は、徳川将軍家の旗本(将軍拝謁)の資格があるとされた。
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