越後長岡藩上席家老 山本氏とは? わかりやすく解説

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越後長岡藩上席家老 山本氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/19 08:32 UTC 版)

三河山本氏」の記事における「越後長岡藩上席家老 山本氏」の解説

越後国長岡藩家老山本帯刀家は三河牛久保六騎以来の家とされるが、その沿革には徳川家への仕官など曲折があった。永禄8年1565年)に稲垣長茂と共に家康御家人列したとの記述があるが、それ以降山本帯刀に関する史料乏しいためその動向があまり詳細ではない。 しかし深溝松平家松平家忠日記家忠日記』には、天正13年1585年12月晦日の条で当時岡崎城代であった本多作左衛門次の歳暮音信訪問受けた人物として本多豊後守広孝、内藤平左衛門(某)と共に山本帯刀の名が見える。また天正18年1590年)の小田原征伐では徳川方陣立て中に陣場奉行として陣した國學院大學の煎本増男による[要出典])。また、関ヶ原合戦図屏風徳川美術館)の中にもその姿が描かれている(参照関ヶ原合戦図屏風徳川美術館)中の山本帯刀、「厭離穢土欣求浄土」の旗の左方見える。)。 さらに前掲家忠日記文禄元年1592年3月16日(旧暦)の条で江戸普請奉行として天野清兵衛と共に記述され松平家忠江戸普請に来るように要請している。文禄元年当時山本帯刀下総国佐倉内で1000石を知行していたとされる。これらの事柄から山本帯刀成行)は越後長岡藩山本家所伝のとおり、文禄年間までは徳川家直参旗本であった推定される[要出典]。 天正18年1590年)に、牧野氏牛久保城主から、大胡城主、2万石栄転すると、山本成行帯刀左衛門)は、牧野康成家老(2,200石)に、就任した成行慶長9年1604年7月10日大胡にて死去その地に埋葬、その夫妻墳墓群馬県前橋市大胡有鷲山長興寺造られた。 牛久保城主の牧野氏所領は7,000程度推定されている[要出典]が、大胡城となった牧野氏2万石では、元和元年1615年当時徳川直参であった稲垣氏平助家)の家禄2400石)は含まれない考えられるが、山本氏帯刀家)の家禄(2,200石)は支給内訳不明であるものの、上記通り文禄元年までは徳川家普請奉行として1,000石の公儀支給受けていた。それゆえに、江戸時代越後長岡藩家老山本氏は、徳川将軍家旗本将軍拝謁)の資格があるとされた。

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