越前美術紙
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/12 13:57 UTC 版)
江戸時代には、透かし紋様紙、漉き込み紋様紙(抜き紋様)、置き紋様紙(漉き掛け)あるいは皺紋加工などの技術が工夫されている。これらの地紙の技法と装飾加工を組み合わせたものが、いわゆる越前美術紙であり、漉き模様ふすま紙という。越前では、早くから大判の間似合紙(まにあいし)をつくっていた。間似合紙とは、襖障子の幅に間に合うという意から名付けられたもので、幅三尺二寸、であった。長さは時代により異なり、襖に対して八段貼り、六段貼りと徐々に大きくなり、明治16年(1883年)頃で四段貼りで、一尺六寸であった。襖障子を一枚貼りで貼ることができる、三尺幅で長さ六尺の大判ふすま紙、いわゆる三六判は、江戸の皺紋を特徴とする岩石唐紙で始まっている。 岩石唐紙をさらに改良したものが泰平紙で、これをさらに明治時代に入って改良発展させたものが楽水紙である。この事については、後でくわしく述べる。明治時代に入っての東京の楽水紙の評価が高まるにつれ、長い伝統に誇りを持つ越前でも一枚貼りの大判のふすま紙の開発に関心が高まり、明治18年(1885年)に福井県今立町新在家(現越前市新在家町)の高野製紙場で、手漉襖張大紙を漉くことに成功している。 高野製紙場では、勧業博覧会などにも積極的に出品して、技術改良にも熱心に取り組み、明治40年(1907年)抄紙機で襖紙の製造を開始し、明治42年(1909年)には、二重・三重の漉き掛けをこなす抄紙機も開発している。 越前での大判の襖紙の製造が増えるにつれて、皺紋加工や漉き模様加工の技術が改良され、襖紙の有数の産地となっていく。 明治30年(1897年)ころには襖判鳥の子紙に、墨流し加工して、輸出までしている。さらに明治43年(1910年)には、ロンドンで開催された日英博覧会には、水玉紙・雲華紙・漉込紙等が出品されて高い評価を受けている。 大正7年(1918年)の『越前製紙案内』によると、前年の越前和紙の生産額は、襖紙が半紙・光沢紙・奉書紙に次ぐ四位の生産高を記録するほどに重要な位置を占めている。 越前の名紙匠と讃えられている岩野製紙の岩野平三郎が、大正期から昭和期にかけて考案した美術紙にはさまざまの技法が用いられ、その多くが襖判鳥の子紙の装飾加工にも応用されている。昭和9年(1934年)頃に発行された越前襖紙の見本帳には、有馬紙。東風紙・すみれ紙・飛雲紙・飛龍紙・七夕紙・野分紙そのほか大正水玉紙・霜降紙・大麗紙・大典紙・金潜紙・銀潜紙・落花紙などの多彩な紙名が見えるが、このなかの主要なものは、岩野平三郎が考案したものである。 越前美術紙には、伝統的な打雲などの雲掛け、皺紋入れ、漉き込み、漉き掛け、漉き合わせ、揉み、楮(こうぞ)黒皮入れ、金銀線入れ、布目入れ、落水と水流しなど複雑で多様な技法が巧みに利用されている。このような伝統と巧みな技術開発により、襖紙産地としての名声を高め、太平洋戦争後の復興需要で、生産量が飛躍的に拡大し、機械抄紙機の普及にともなって、現在に至るまで襖紙の主流を占めている。
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