襲封と宝暦疑獄
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寛保27年(1742年)12月27日、6代藩主・伊達宗村の二男として誕生。幼名は儀八郎。生母は坂信之(正三郎)の娘・性善院。 延享2年(1745年)に長兄・久米之丞が早世したため世子となる。その後国村(くにむら)と名乗るが、宝暦5年(1755年)に元服して9代将軍・徳川家重より偏諱を拝領し、重村と改名する。宝暦6年(1756年)7月、父・宗村の死に伴い家督を相続する。重村はまだ15歳であったため、若年を理由に幕府より国目付が派遣され、叔父の陸奥一関藩主・田村村隆の後見を受けた。 ところが襲封早々、前年に発生した宝暦の飢饉と、再び悪化の一途を辿り始めた藩財政への対応を巡って、5人の奉行職(奥山良風・津田定康・葦名盛寿・柴田成義・遠藤善信)の間で意見が対立、9月に柴田と遠藤が大條道頼と但木顕行の2人を新たに奉行職につけて人事を刷新するよう求めたのに対して、宗村政権の中核を担ってきた奥山、津田、葦名が反対したことで争いが表面化し、同月には柴田と遠藤の求めに応じた一門の亘理伊達村実・岩出山伊達村通・岩谷堂伊達村望・村富父子と白河村広の5人が、奥山、葦名を解任し大條、但木、中島成康の3人を新たに奉行職に起用するよう重村に進言した。 事態の処理を任された後見役の村隆は、岳父・村実の意見に従い、人事刷新案に同意したが、奥山はこれに猛反発し、老中・堀田正亮への直訴すら辞さない構えを見せた。そうした最中に、葦名が宗村の存命中に自身の葬儀と廟所に関する指示を記した覚書の回覧を失念していたことが発覚する。覚書自体は何ら政治的な意味を持たないものであったが、人事刷新を求める側はこれを意図的な「御遺書」の隠匿であるとして奥山ら3人への攻撃材料とした。「御遺書」問題によってこの一件は、政策論争から単なる吊し上げへと堕し、閏11月19日に津田は改易、葦名は閉門、奥山は逼塞の上で知行3分の2を削られて吉岡から小野田へ移封され、罷免された3人に代わって中島、大條、但木が奉行職に就任した。翌年1月には重村の世子時代の付家老であった芝多康文が奉行職を拝命した(宝暦疑獄)。
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