襲封と宝暦疑獄とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 襲封と宝暦疑獄の意味・解説 

襲封と宝暦疑獄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 13:32 UTC 版)

伊達重村」の記事における「襲封と宝暦疑獄」の解説

寛保27年1742年12月27日6代藩主伊達宗村二男として誕生幼名は儀八郎生母は坂信之(正三郎)の娘・性善院延享2年1745年)に長兄久米之丞が早世したため世子となる。その後(くにむら)と名乗るが、宝暦5年1755年)に元服して9代将軍・徳川家重より偏諱拝領し重村改名する宝暦6年1756年7月、父・宗村死に伴い家督相続する重村はまだ15歳であったため、若年理由幕府より国目付派遣され叔父陸奥一関藩主・田村村隆後見受けた。 ところが襲封早々前年発生した宝暦の飢饉と、再び悪化一途辿り始めた財政への対応を巡って、5人の奉行職奥山良風・津田定康・葦名盛寿・柴田成義・遠藤善信)の間で意見対立9月柴田遠藤が大條道頼と但木顕行の2人新たに奉行職につけて人事刷新するよう求めたに対して宗村政権中核担ってきた奥山津田、葦名が反対したことで争い表面化し同月には柴田遠藤求め応じた一門亘理伊達村実岩出山伊達村通岩谷伊達村望父子白河村広の5人が、奥山、葦名を解任し大條、但木、中島成康の3人を新たに奉行職起用するよう重村進言した。 事態の処理を任され後見役隆は、岳父実の意見従い人事刷新案に同意したが、奥山はこれに猛反発し、老中堀田正亮への直訴すら辞さない構え見せたそうした最中に、葦名が宗村存命中に自身葬儀廟所に関する指示記した覚書回覧失念していたことが発覚する覚書自体何ら政治的な意味を持たないものであったが、人事刷新求める側はこれを意図的な御遺書」の隠匿であるとして奥山ら3人への攻撃材料とした。「御遺書問題によってこの一件は、政策論争から単なる吊し上げへと堕し、閏11月19日津田改易、葦名は閉門奥山逼塞の上知行3分の2削られ吉岡から小野田移封され、罷免された3人に代わって中島、大條、但木が奉行職就任した翌年1月には重村世子時代付家老であった多康文が奉行職拝命した(宝暦疑獄)。

※この「襲封と宝暦疑獄」の解説は、「伊達重村」の解説の一部です。
「襲封と宝暦疑獄」を含む「伊達重村」の記事については、「伊達重村」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「襲封と宝暦疑獄」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「襲封と宝暦疑獄」の関連用語

1
12% |||||

襲封と宝暦疑獄のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



襲封と宝暦疑獄のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの伊達重村 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS