藤原資道(首藤資通)
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「奥州後三年記」の記事における「藤原資道(首藤資通)」の解説
藤原の資道は将軍のことに身したしき郎等なり。年わづかに十三にして将ぐんの陣中にあり。よるひる身をはなるゝ事なし 安田元久は、この人物を相模国の在地領主とされる。 同じ相模国の在地領主山内首藤氏もまた義家の家人となった。すなわち、『吾妻鏡』によれば、「相模国住人山内首藤資通が、義家に仕えた」(治承4年11月26日条)という。これは「山内首藤系図」の記載にも一致するので、おそらく事実であったと思う。 事実と見なしうるのは「首藤資通が、義家に仕えた」ことであって「相模国の在地領主山内首藤氏もまた義家の家人」ということではない。首藤氏に山内と出てくるのは、『尊卑分脈』において、首藤資通の孫の首藤義通に、山内刑部丞と傍注されているのが最初である。「山内首藤系図」は『続群書類従』に収録されているものを指すが、そこでは義通の子俊通に「相模国に住み、山内滝口を号す」とある。 首藤資通の祖父、藤原公清 は秀郷流藤原氏で、従五位下左衛門尉検非違使。京武者であり、その系統の多くは佐藤を名乗る。その嫡流は鳥羽院に使えた北面武士、従五位下左衛門尉佐藤季清であり、その孫が、やはり鳥羽院に使えた北面武士・従五位下佐藤兵衛尉義清、後の西行である。 「藤原の資道」こと首藤資通はこのとき(1087年11月)13歳、義家の陸奥下向の時から従っていたとすればまだ9歳(今で言う8歳)、当然自分の意志ではなく父の意向であろう。その父藤原資清(助清)と一緒に陸奥に赴いたのかもしれない。ただし、藤原資清の名は『奥州後三年記』には出てこない。 その藤原資清は「守藤太夫」とも、「首藤大夫」とも呼ばれる。「守藤太夫」と呼ばれるのは系図上は藤原公清が関東の受領を務めていたときに出来た子を伴い、京に戻る途中で、美濃国席田郡司守部氏にその子が見込まれて守部氏の養子となった。その守部氏は源頼義の郎党であったことから、頼義に仕えることとなったとされるが、研究者の間では、美濃国席田郡司守部資清が、藤原公清の猶子となったのだろうと見られている。「首藤大夫」と呼ばれるのは首馬首(しゅめのかみ)となったことからである。 従って、その子首藤資通の頃は、美濃を本貫とする京武者であり、相模国とはなんの関係もない。実際に首藤資通は、京において義家の六条の屋敷の向いに、「みのわ堂」を造営したとされている。つまり、本宅は京の義家の屋敷の隣。首藤氏はその後も、首藤資通の子、首藤親清が1130年に北面下臈、すなわち北面武士となる。そして1149年に左衛門少尉。最初に山内と出てくる前述の首藤義通は更にその子である。そして首藤氏が山内首藤を名乗る初見は保元の乱・平治の乱においてである。首藤義通・俊通が相模国鎌倉郡北部の山内に住したのは、八条院を本所とする大規模荘園、山内荘の成立と同時と見られており、その時期は鳥羽院の頃、12世紀中頃で、ちょうどその頃、相模においては源義朝が「大庭御厨の濫妨」などを引き起こしていた。
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