藤原資道とは? わかりやすく解説

藤原資道(首藤資通)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 01:25 UTC 版)

奥州後三年記」の記事における「藤原資道(首藤資通)」の解説

藤原の資道は将軍のことに身したしき郎等なり。年わづかに十三にして将ぐんの陣中にあり。よるひる身をはなるゝ事なし 安田元久は、この人物を相模国在地領主とされる。 同じ相模国在地領主山内首藤氏もまた義家家人となった。すなわち、『吾妻鏡』によれば、「相模国住人山内首藤資通が、義家仕えた」(治承4年11月26日条)という。これは「山内首藤系図」の記載にも一致するので、おそらく事実であったと思う。 事実見なしうるのは「首藤資通が、義家仕えた」ことであって相模国在地領主山内首藤氏もまた義家家人ということではない。首藤氏に山内出てくるのは、『尊卑分脈』において、首藤資通の孫の首藤通に山内刑部丞傍注されているのが最初である。「山内首藤系図」は『続群書類従』に収録されているものを指すが、そこでは義通の子通に相模国住み山内滝口を号す」とある。 首藤資通の祖父藤原公清 は秀郷流藤原氏で、従五位下左衛門尉検非違使京武者であり、その系統多く佐藤名乗る。その嫡流鳥羽院使えた北面武士従五位下左衛門尉佐藤季清であり、その孫が、やはり鳥羽院使えた北面武士従五位下佐藤兵衛尉義清、後の西行である。 「藤原の資道」こと首藤資通はこのとき(1087年11月13歳義家陸奥下向の時から従っていたとすればまだ9歳(今で言う8歳)、当然自分意志ではなく父の意向であろう。その父藤原資清(助清)と一緒に陸奥赴いたのかもしれない。ただし、藤原資清の名は『奥州後三年記』には出てこない。 その藤原資清は「守藤太夫」とも、「首藤大夫」とも呼ばれる。「守藤太夫」と呼ばれるのは系図上は藤原公清関東受領務めていたときに出来た子を伴い、京に戻る途中で美濃国席田郡守部氏その子見込まれ守部氏養子となった。その守部氏源頼義郎党であったことから、頼義に仕えることとなったとされるが、研究者の間では、美濃国席田郡守部資清が、藤原公清猶子となったのだろうと見られている。「首藤大夫」と呼ばれるのは首馬首(しゅめのかみ)となったことからである。 従って、その子首藤資通の頃は、美濃本貫とする京武者であり、相模国とはなんの関係もない。実際に首藤資通は、京において義家六条屋敷向いに、「みのわ堂」を造営したとされている。つまり、本宅は京の義家屋敷の隣。首藤氏はその後も、首藤資通の子首藤親清が1130年北面下臈、すなわち北面武士となる。そして1149年左衛門少尉最初に山内出てくる前述首藤義通は更にその子である。そして首藤氏が山内首藤名乗る初見保元の乱・平治の乱においてである。首藤義通・俊通が相模国鎌倉郡北部山内住したのは、八条院本所とする大規模荘園山内荘の成立同時見られており、その時期は鳥羽院の頃、12世紀中頃で、ちょうどその頃相模においては源義朝が「大庭御厨濫妨」などを引き起こしていた。

※この「藤原資道(首藤資通)」の解説は、「奥州後三年記」の解説の一部です。
「藤原資道(首藤資通)」を含む「奥州後三年記」の記事については、「奥州後三年記」の概要を参照ください。

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