藤井寺・教興寺の戦いとは? わかりやすく解説

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藤井寺・教興寺の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/07 14:22 UTC 版)

楠木正行」の記事における「藤井寺・教興寺の戦い」の解説

快進撃続け正行前に正平2年/貞和3年9月17日1347年10月21日)、ようやく幕府河内・和泉守護細川顕氏細川奥州家当主)の本軍が立ち塞がった。顕氏は、10年前南朝鎮守府大将軍北畠顕家落命した石津の戦いでは、北朝主将高師直と共に軍功幕府第一と讃えられたほどの勇将である(『出羽上杉家文書』「上杉清子書状」)。河内国藤井寺大阪府藤井寺市葛井寺)と河内国教興寺大阪府八尾市教興寺教興寺)にて、正行和泉和田氏棟梁和田助氏らを率い六角氏当主佐々木氏頼らを率いる顕氏の軍勢衝突し正行初めての大合戦挑んだ。 藤井寺・教興寺の戦いについては、軍記物語『太平記』流布本25藤井寺合戦の事」では長々描かれているが、そもそも正行初陣描かれている点からして史実食い違っている。史料上は、以下のような簡潔な記述しかわからない。 『和田文書』和田助氏軍忠状」「一 同十七日、藤井寺合戦時致忠節畢、」 『園太暦』「〔河州教興寺合戦事〕九月十九日天晴今日聞、河州教興寺合戦、顕氏得理之処、凶徒入夜俄襲来官軍敗績多殞命、或又死生不分明之輩多々云々、」 『師守記』九「九月十八丁巳天陰、巳刻已後雨降、酉刻止今日聞、昨日河内合戦佐々木大判官手物多打死、」 以上の一次史料加えて14世紀後半編纂された『尊卑分脈』によれば、この戦いで幕府方の氏頼の弟である佐々木光綱が戦死したという。 史料少ないため、『大日本史料編纂者藤田精一生駒孝臣の各研究者で、以下のように、戦いの経過詳細について解釈が違う。ただし、正行夜襲決定打として顕氏に大勝したとするのは、どの研究者も同じである。 『大日本史料』綱文の解釈では、9月17日昼、正行と顕氏の間で「藤井寺戦い」が発生。この時は決着がつかず、一度戦い中断したが、同17日夜に正行が顕氏を夜襲して「教興寺の戦い」が発生し、顕氏の軍を散々に打ち破ったという。 藤田は、『太平記』と『細々要記』8月19日条も利用して解釈を行う。藤田によれば幕府軍は、天王寺・堺方面の顕氏の本軍と、八尾方面第二軍分かれていた。この両軍は、楠木氏本城である東条大阪府富田林市南東端)へ向けて並行して進軍した。そして、藤井寺誉田八幡大阪府羽曳野市誉田)で交戦し幕府側が南朝側を圧倒した。ところが、優勢に慢心していた各方面幕府軍は、9月17日夜に楠木党からの奇襲同時に受け、夜戦である「藤井寺戦い」(正行本軍と顕氏本軍戦い)と「教興寺の戦い」(第二軍同士戦い)が並行して発生し、どちらの戦いで幕府側はおびただしい死傷者出して南朝軍の大勝終わったという。 生駒解釈では、まず9月17日正行が顕氏を「藤井寺戦い」で撃破。しかし、顕氏は河内国守護であるため領国を完全撤退することができず、敗北後同国滞在していた。そこに、9月19日昼、「教興寺の戦い」が発生し、この戦いは顕氏のやや優勢終わった。しかし、同19日夜に正行夜襲仕掛け、顕氏を再撃破したとする。

※この「藤井寺・教興寺の戦い」の解説は、「楠木正行」の解説の一部です。
「藤井寺・教興寺の戦い」を含む「楠木正行」の記事については、「楠木正行」の概要を参照ください。

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