葱嶺通過路、石塔、ホルメーテーリオンの比定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 20:39 UTC 版)
「マエス・ティティアノス」の記事における「葱嶺通過路、石塔、ホルメーテーリオンの比定」の解説
「石塔」はプトレマイオスとほぼ同時代のプリニウスの著作にも記載があり、当時の東西交易路上の要衝であったことがうかがわれる。しかしながら、プトレマイオスほか、西ユーラシア側の資料の記載は曖昧で茫漠としており、葱嶺通過路、石塔、ホルメーテーリオンが現在の地名ではどこにあたるのかが長らく不明であった。 「セレス人の地(絹の国、セリカ)」が中国であり、そこへ至るために越えなければならない大山脈である「イマオン山脈」がパミール高原であることは明らかであるが、マエスら商人たちが辿ったパミール高原越えの通路の詳細が不明であった。このルートは、バクトリア(大夏)の首都バクトラ(バルフ)から、コメダイ族の谷に沿って山地を登ってゆくと「石塔」に達し、ここからイマオン山脈を越えれば「出発点」を意味するホルメーテーリオンに着き、さらに東のセレス人の地に向かう出発点となるというものである。地名比定については、諸説あるが、大別して二説となる。 まず、リヒトホーフェンやオーレル・スタインらは、バルフを出立後アムダリヤ川を超えて北へ向かう渓谷沿いのルートを主張した。この場合、石塔はアライ渓谷中のダラウトクルガンという隊商宿にあたり、ホルメーテーリオンはアライ渓谷上流のイルケシュタムかカシュガルに比定される。これに対し、白鳥庫吉はバルフを出立後東へ向かい、クンドゥーズを過ぎ、アムダリヤ川上流のワハーン渓谷に沿って遡行し、サリコールの鞍部を越えてタリム盆地へ向かうルートを提唱した。織田(1986)によると、この場合、石塔はトルコ語で「山城」を意味するタシュクルガンと考えられ、ホルメーテーリオンはカシュガルかヤルカンドに比定されると述べているが、白鳥(1940)は玄奘『西域記』の記述などに基づいて、タシュクルガンとヤルカンドを結ぶ交易路上にあったとする。白鳥説は外国語への翻訳がなく、あまり知られていない。日本以外では、リヒトホーフェン説が信じられている。なお、後述のCary (1956)は葱嶺通過路について特に言及せず石塔がパミール高原中のどこかにあると言うのみである。
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