英語教師時代
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1926年(昭和2年)東京女子大学を卒業し、横浜の母校の横浜英和女学校で教師になる。1940年(昭和15年)実業家、政治家、詩人の陶山篤太郎と結婚。 1941年(昭和16年)9月に夫陶山篤太郎が肺結核のために死去。娘に婿を迎える。1941年12月に太平洋戦争が始まると娘婿が南方戦線に出征したため、娘と2人で川崎市に住む。その後、横浜の郊外戸塚の山中に疎開する。 1945年(昭和20年)8月、太平洋戦争が終結すると、横浜山手の共立女学校(現:横浜共立学園中学校・高等学校)で英語教師として勤務するようになる。 1946年(昭和21年)の春に、賀川豊彦の集会に出席するために鎌倉に行く。その時に聖霊体験の話を聞き、祈り求めるようになる。 英語教師として勤務してた共立女学校に進駐軍将校が聖書の話をするために来るようになる。その際陶山が通訳を務める。その将校が横浜市本町の小学校の体育館で、毎週日曜日の午後にユース・フォー・クライスト(英語版)の集会を行っていた。その集会の通訳を行うようになる。1946年秋頃、ドイツ人宣教師に導かれて、回心(聖霊体験)を経験する。そして、浸礼による洗礼を受け直した。それ以来、英語教師を務めながら、平日の放課後に横浜市内の中学校、女学校でクリスチャンの米兵を招いてバイブルクラスを開き通訳を務める。土曜日の午後は、大磯か平塚の教会でGIゴスペルアワーに出席するようになる。また、その年娘婿が復員し、娘一家が別に住むようになったので、陶山は姉夫婦と末弟と一緒に住むようになる。
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英語教師時代
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牧師辞任後教師の道を歩み、1889年(明治22年)に長野県尋常師範学校(現:信州大学)の英語教員を務める。同時に、日曜日に自宅を開放して聖書研究会をし、多くの求道者を集める。1990年(明治23年)から長野伝道を始めた長老派の日本基督教会と日本メソジスト教会に託して、1890年(明治23年)に浅川は長野を去る。 1904年(明治37年)には宮城県尋常中学校(現:宮城県仙台第一高等学校)の英語教師を務める。
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