若松監督時代
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「東京ヤクルトスワローズ」の記事における「若松監督時代」の解説
1999年 先発陣(石井一久・伊藤智仁・川崎憲次郎)が総じて1ケタ勝利に終わるなどし66勝69敗、勝率.489の4位と低迷したが、前年まで通算8勝の高木晃次がプロ入り初の規定投球回数に到達 してチームの日本人最多の9勝を、新外国人のジェイソン・ハッカミーがチーム最多の12勝を挙げた。野手陣ではハッカミー同様新外国人のロベルト・ペタジーニが44本塁打を放ち本塁打王を獲得、オリックスからトレードで来た高橋智が復活をアピールし、主に守備要員だった佐藤真一が突然の打撃開眼でチームを牽引。またプロ3年目の岩村明憲の成長など明るい話題もあった。なお長年続いていたユマキャンプはこの年限りで撤退している。 2000年 石井一久がシーズン最終登板で中日の山本昌を抜いて最優秀防御率のタイトルを獲得する。五十嵐も前半リリーフ登板だけで11勝を挙げる活躍をしたが、チームの好不調の波が激しく、66勝69敗1分け、勝率.489と過去2年と同じ成績で3年連続の4位に終わるが、優勝した巨人には16勝11敗と勝ち越した。オフにハッカミーが退団。 2001年 投手陣は川崎がFAで中日に移籍、伊藤智、新外国人アラン・ニューマン、ジョナサン・ハーストらの故障離脱で先発投手が不足する中、石井一以外、新しい投手陣に様変わり。2年目の藤井秀悟が14勝を挙げ最多勝、巨人を解雇されテスト入団の入来智とオリックスを解雇されテスト入団2年目の前田浩継の「リストラ組」もそれぞれ10勝、7勝とローテーションを支え、横浜を解雇された島田直也がチーム2位の52試合に登板。打線も、本塁打と打点の2冠のペタジーニ、打率2位の古田を筆頭にレギュラー8人(他は真中満、宮本慎也、稲葉篤紀、岩村明憲、アレックス・ラミレス、土橋勝征)が全て規定打席到達という安定ぶりで、この年のみ採用の「勝利数優先」の順位決定方式を逆手に取り、巨人を振り切り4年ぶりのリーグ優勝。若松は球団生え抜きとして初の優勝監督となった。10月6日、優勝を決め胴上げされた直後のインタビューで、ファンへの感謝を言うべきところ「ファンの皆様、本当に…あのぉ、おめでとうございます!」と言い間違え、球史に残る名言となった。ドラフトでは後に「小さな巨人」と呼ばれるようになる石川雅規を指名。日本シリーズでは大阪近鉄バファローズと対戦。近鉄自慢の「いてまえ打線」を封じ込めて4勝1敗で4年ぶりの日本一を達成。オフに石井一が大リーグのロサンゼルス・ドジャースに移籍。 この年、セ・リーグは勝数で順位を決定した。ただし、勝数が最も多い球団と勝率が最も高い球団が異なる場合はプレーオフで優勝決定する方式へと変更し、マスコミ等に掲載される順位表も勝数順とされた。しかし、各球団試合消化数には違いがあり、実際に優位に立つのは勝率の高いチームだった。 ドーム球場をフランチャイズとして順調に試合を消化した巨人に対し、雨天中止があるヤクルトは例年に比べてさらに試合消化が鈍かった。このため前半戦終了時には巨人の方が試合数が多いため勝数も多く首位に立ったが、勝率ではヤクルトが上回り、ゲーム差(勝数優先の順位表では表示されなかったが)でも4.5差をつけていた。この「隠れ首位」の状態は8月まで続いた。 このような経緯があったためか、2002年からは勝率優先の順位へと戻った。ただし、2007年のクライマックスシリーズ導入までは勝率が最も高い球団と勝数が最も多い球団とが異なる場合はプレーオフで優勝を決定することは変わらなかった。 この年は21世紀最初のペナントレースだったので、ヤクルトは「21世紀最初のセ・リーグ優勝、日本一球団」となった。 2002年 チームは2位を確保。ルーキー・石川雅規が12勝を挙げ新人王に、石井弘寿が69試合に登板し最優秀中継ぎ投手に選出された。また、前年に途中入団したケビン・ホッジスが最多勝を獲得した。黄金時代を支えた池山隆寛はこの年限りで引退。シーズンオフにペタジーニが巨人に移籍した。 2003年 シーズン前に西武を自由契約となっていた鈴木健を獲得。高津臣吾が佐々木主浩の持つ通算229セーブのプロ野球記録を更新し、最優秀救援投手を獲得した。高津はオフに大リーグのシカゴ・ホワイトソックスに移籍。また、来日3年目のアレックス・ラミレスが本塁打王・打点王・最多安打と3つのタイトルを獲得し、ペタジーニの穴を埋める活躍を見せた。チームは中日・巨人・広島とのAクラス争いの末、巨人と同率の3位。 2004年 年間の総得失点差が-73点だったにもかかわらず、最終戦で巨人を抜き72勝64敗の2位でシーズンを終え、球団史上初の4年連続Aクラスを達成した。オフに稲葉篤紀が日本ハムへFA移籍。 2005年 4月24日、古田が捕手としては野村克也以来史上2人目、大学・社会人を経てプロ入りした選手としては史上初の通算2000本安打を達成。シーズン結果は4位。シーズン終了後、若松は監督を退任。後任は古田が選手兼任監督として就任した。二軍はこの年から社会人大会に出場している(詳細)。オフにメジャーから日本への復帰を果たした石井一を2年契約により獲得し、広島の4番打者だったグレッグ・ラロッカも獲得するなど、積極補強に動いた。12月19日のプロ野球実行委員会で古田の悲願だった地元密着型として「東京ヤクルトスワローズ」へのチーム名変更が全会一致で承認され、ユニフォームに国鉄時代以来となる「Tokyo」の文字が復活した。 2022年現在、ヤクルトスワローズに所属経験のある東京ヤクルトスワローズの現役日本人選手は石川雅規・青木宣親の2人。
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