若き政治家
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「コンスタンティン・パッツ」の記事における「若き政治家」の解説
そこでパッツは、政治家となりバルト・ドイツ人が未だに支配している地方で権力を手に入れようと考えた。1904年、パッツはタリン市の相談役になると 、ポスカとともに、エストニア人から自由主義者のロシア人までを巻き込んだ選挙工作を行い、同年のタリン市議会選挙に辛くも当選、市議会議員となる。1905年には市長補佐に進み、同時に市議会の議長をも務めた。しかし、市議会での活発な活動のために、この頃の彼はほとんど新聞に割ける時間がなかった。そのため、テタージャの実権はハンス・ポーゲルマン率いる革命派グループに移り、反政府的な記事を書いて大いに民衆を扇動した。 1905年の革命の時、パッツは既にバルト諸国の自治と民主化を訴える活動家となっていた 。革命の高まりの中で、彼の新聞は発禁とされ、社員は逮捕されてしまった。パッツはこのことを事前に察知し、辛うじてスイスへと遁れ、そこでロシア帝国によって自身が死刑を宣告されたとの報に接した。 1906年、パッツはフィンランドの首都ヘルシンキへ移り、文筆業を継続した。彼の原稿の多くはエストニアにて匿名で出版された。また、市当局の土地改革に関する質問に助言を加えた。1908年、パッツはサンクトペテルブルクのロシア国境附近に位置する街・オリラ(英語版)に移る。ここで、彼はフィンランドに身を置きながら、スイスへ亡命した際に生き別れた家族との再会を果たした。 妻ヘルマの病が重くなってからは、パッツはもはやロシアが彼に死を望んでいないことを知り、1909年、少しばかりの代償を条件にエストニアに戻った。1910年2月、パッツはサンクトペテルブルクのクレスティ刑務所に収監される。同時に、パッツが薬を送り続けていたにもかかわらず、妻がスイスで結核により死亡した。収監中のパッツは外国語を学び、新聞に載せるべく論文を執筆した。1911年5月25日、釈放される。このとき、エストニア州の知事がかねてから、1905年の行動を理由に彼をかの地へ戻さないよう要請していたこともあり、エストニアとリヴォニアの知事から6年間の追放を宣告された。ところが最終的には、ポスカとの深い関係が彼を再びエストニアに呼び戻した。パッツは改めて新聞を創刊し、『タリン・テタージャ』と名付けた。 1916年2月から、パッツはタリン市の将校となり、翌1917年にはエストニア軍人最高会議の議長に選出され、帝国軍のエストニア人部隊に協力の働きかけを行う。戦争の間も、パッツはエストニア人と自由主義を支持するバルト・ドイツ人資産家との連携を画策し続けた。
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若き政治家
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「アンソニー・イーデン」の記事における「若き政治家」の解説
1922年11月に下院選挙にウォリック・レミントン(Warwick-Leamington)選挙区から保守党候補として出馬したものの落選し、1923年12月の選挙で当選した。この年には銀行家の娘のベアトリス・ベケットと結婚し、3人の子をもうけたが夫婦仲は良くなかった。 1924年1月からの保守党内閣では内務大臣の議会担当秘書官を務め、1931年9月に外務次官に就任した。1933年12月にはラムゼイ・マクドナルド内閣の王璽尚書として初入閣を果たした。この時期のイーデンはファッションリーダー的存在としても注目を集め、彼の愛用した帽子はアンソニー・イーデン・ハットと呼ばれ、外交官や公務員の間で流行した。
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