総理退任後
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1974年晩秋、田中金脈問題が騒がれ始めるなか、佐藤は非核三原則やアジアの平和への貢献を理由としてノーベル平和賞を日本人で初めて受賞した(受賞に関する詳細は後述)。賞金は「国際連合の下に設立された国連大学の発展に協力するなど、世界の平和と福祉の向上に資すること」を目的として佐藤栄作記念国連大学協賛財団に寄附され、国連大学の行う世界的課題の研究のうち、業績顕著なる者への褒賞として佐藤栄作賞が制定されている。 1975年5月19日、築地の料亭「新喜楽」で、政財界人らとの宴席での最中にトイレに行こうとして立ち上がったところで崩れるように横倒しとなり、すぐいびきをかき始めたという。現在の日本では、ただちに救急車を呼び病院に運ぶのが常識だが、当時は逆で、すぐ駆けつけた慶應義塾大学や東京大学の医師団や家族も誰も病院に運ぼうとしなかったという。倒れた原因は脳溢血。寛子夫人の強い意向で4日間「新喜楽」で容態を見たあと、港区の東京慈恵会医科大学附属病院に移送されたが一度も覚醒することなく昏睡を続けたのち、6月3日に死去、74歳。 6月16日、日本武道館で大隈重信以来の「国民葬」が行われた。葬儀委員長は田中角栄。遺族代表は兄・岸信介だった。 浄土真宗本願寺派第23世門主・勝如より法名「作願院釋和栄」を受け、また山口県田布施町にある佐藤家菩提寺の浄土真宗本願寺派帯江山真光寺 より「周山院殿作徳繁栄大居士」の戒名も受けている。墓所は東京都杉並区永福の築地本願寺和田堀廟所と、郷里の山口県田布施町にある。 1996年から1997年に、倒れる前日まで記していた『佐藤栄作日記』(全6巻、伊藤隆監修、朝日新聞社)が刊行された(佐藤自身は、朝日新聞を同紙の編集方針から毛嫌いしていた)。
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