第3の哨戒 1942年3月 - 4月・ドーリットル空襲
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「スレッシャー (潜水艦)」の記事における「第3の哨戒 1942年3月 - 4月・ドーリットル空襲」の解説
3月23日、スレッシャーは3回目の哨戒で日本近海に向かった。この哨戒では、ウィリアム・ハルゼー中将率いる第16任務部隊(空母ホーネット (USS Hornet, CV-8)、エンタープライズ (USS Enterprise, CV-6) 基幹)が近く行う特別任務ための気象データを収集する任務も与えられていた。この特別任務は、4月18日のジミー・ドーリットル中佐による日本空襲に他ならない。また、スレッシャーには「4隻の日本の潜水艦が東京湾から出てくるであろう」というウルトラ情報(英語版)も伝えられていた。4月10日朝、スレッシャーは大型の貨物船を発見した。貨物船が霧の中に入っていく前に魚雷を3本発射したが、すべて外れた。やがて、貨物船は霧の中から出てきたが、このときは攻撃態勢が取れず、見逃すしかなかった。しかし、スレッシャーはその日のうちに2番目の目標を発見し、伊豆大島北端風早埼灯台沖で貨物船サド号(帝国船舶、元ポルトガル船サド/山下汽船委託、3,039トン)に魚雷1本を命中させて撃沈した。間もなく、3隻か4隻程度の哨戒艦艇がスレッシャーに対し爆雷攻撃を実施。スレッシャーは120メートルの深度に潜んで攻撃が止むのを待った。攻撃が止むと、スレッシャーはハルゼー中将の任務部隊のための支援を続けた。ところが、4月13日に浮上して充電中にスレッシャーは大波を被り、海水は艦内に入り込んで電気系統を水浸しにしてショートさせ、塩素ガスの発生が危惧された。しかし、応急措置が迅速におこなわれた結果、海水はくみ出されて最悪の事態を免れた。4月14日、スレッシャーは気象データを通報し、この情報はハルゼー中将の任務部隊に通報されて極秘作戦に活用された。スレッシャーは4月16日にこの海域を去り、2機の日本の哨戒機から逃れた。4月29日、スレッシャーは37日間の行動を終えて真珠湾に帰投。艦長がウィリアム・J・ミリカン少佐(アナポリス1928年組)に代わった。
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