第1期南仏時代とは? わかりやすく解説

第1期南仏時代(1925年 - 1934年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 19:45 UTC 版)

青山義雄」の記事における「第1期南仏時代(1925年 - 1934年)」の解説

順調に画家としての道を歩き始めた青山をふいに病が襲った。肺を患い喀血したのである友人医師勧めもあって、1925年31歳時に南仏カーニュ引っ越したパリ呼んだ妻も同じ病気冒されており、青山どれほど不安にさいなまれたかは想像つかない。 だが、南仏青山魅了したほどなくして病は癒え青山が「世界で一番美しい」という南仏明るい光は後に「色彩魔術師」と呼ばれる鮮烈な色遣い開花させるきっかけになった。特に独特の青は「青山ブルー」と呼ばれるほどだ。 そして、生涯の師に出会う。翌1926年ニース画廊委託していた数の絵が、偉大な画家アンリ・マティスの眼にとまったマティスは「この男は色彩持っている」と賞賛した。この話を伝え聞いた青山知人だった画家は嫌がる青山無理やりニースにあったマティスの家に連れて行ったマティス生真面目な絵一筋青山気に入ったのだろう。以後マティスが死ぬまで二人師弟として、よき友人として交友続いた青山は月に1回マティスの家を訪ねるようになり、作品指導助言受けたマティスデッサン大切さ説き、「背中後ろに手が回せるようなデッサン本物だ」と口癖のように語ったその後マティス有名なコレクターであり、美術評論家福島繁太郎青山をこう推薦した。「あの日本人は非常に真面目な男で勉強一心不乱です。まだ若いからあの調子勉強続けた立派な者となるでしょう何かにつけて力になってあげなさい」 当時パリ日本人画壇福島派と、大金持ちである薩摩治郎八頭目藤田嗣治大看板とする薩摩派の二大グループ大別されていた。当時パリ滞在していた画家大森啓助の回想によれば、あるとき、両派が対立し福島派で重きをなしていた青山悲憤慷慨して薩摩派一人謝罪文を書かせて、ことを納めたという。大森青山のことを「例の気性我慢していられなくなり、自ら紛争渦中飛び込んだと書いており、青山喧嘩早さ正義感ぶりを物語っている。 1929年青山35歳にして初めパリ個展開きその後毎年のように個展開いた。もはや押しも押されもせぬ画家になっていた。

※この「第1期南仏時代(1925年 - 1934年)」の解説は、「青山義雄」の解説の一部です。
「第1期南仏時代(1925年 - 1934年)」を含む「青山義雄」の記事については、「青山義雄」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「第1期南仏時代」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「第1期南仏時代」の関連用語

第1期南仏時代のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



第1期南仏時代のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの青山義雄 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS