第1期勧学会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/23 05:29 UTC 版)
最初の勧学会とされているのは、応和4年(康保元年)3月15日に比叡山西麓の月林寺(廃寺、現在の曼殊院付近)あるいはその近くにあった親林寺(廃寺)で開かれたものとされている。主な参加者は慶滋保胤・藤原在国(後の有国)・橘倚平・高階積善ら紀伝学生らで延暦寺側の参加者については不明である。後に大江以言らも参加して20年ほど続けられた。『本朝文粋』に所収された参加者の漢詩などによって勧学会の様子が垣間見える。また、『三宝絵詞』には会の詳細な様子が描かれている。同書によれば、開催日前日の14日夕方に延暦寺の僧侶が下山して会場となる寺院を訪問し、学生ら俗世側の参加者は予め会場に集って詩句や経文を誦しながら僧侶の来訪を待つ。勧学会初日の15日は朝から『法華経』の購読を行い、夕方に弥陀を念じ(阿弥陀の名前を唱える)、夜は仏教の功徳を称える漢詩を作成する。その後、俗側は白居易(儒教的教養の持ち主ながら仏教を擁護した)の詩を、僧側は『法華経』を朗読して夜を明かし、翌16日朝に解散したという。 また、『本朝文粋』には天延2年(979年)から翌年にかけて参加者が勧学会を開くための会場となる念仏堂建立を計画していたことが記されている。だが、資力不足から計画は挫折し、更に主導的な立場にあった慶滋保胤が寛和2年(986年)に出家して、俗界の行事であった勧学会から離脱した事から自然消滅したと見られている。なお、再開された最初の勧学会に参加した第1期参加者の藤原有国の漢詩(「世尊大恩」)と高階積善の詩序に中断期間が19年間であったことが明記されている。この期間については永観2年(984年、『三宝絵詞』の作成年)から正暦3年(992年)、終期を長保5年(1003年)から寛弘8年(1011年、勧学会再興に尽力した藤原有国の没年)までの間のうちの19年間と考えられている。
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