第一次大戦後のスウェーデンでの運用
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「LK II」の記事における「第一次大戦後のスウェーデンでの運用」の解説
第一次世界大戦後、ヴェルサイユ条約の条件の下、ドイツは戦車の製造や使用を許可されなかったので、戦後、LK IIの在庫を、スウェーデンに10両を、ハンガリーに14両を、密かに売却した。LK IIの正確な生産数はわかっていないが、このことから、少なくとも24両が生産されたのは確実である(少なくともその分の部品は。未組み立てだった可能性もある。(完成品がわざわざ分解されたのではなく)そのまま部品として売却された可能性もある)。 1921年、ベルリンのSteffen & Heyman社が仲介となり、スウェーデン政府は、秘密裏に10両分の部品を、総額20万スウェーデン・クローナで購入した。スウェーデンは、ルノー FT-17 軽戦車を購入したかったが、高価だったので諦め、FT-17の三分の一の価格で、LK IIを購入した。スウェーデンでは、操縦手と車長兼回転砲塔機銃手の2名に、機銃手の2名を追加し、計4名の乗員で本車を運用した。追加の機銃手2名は、車体両側面の機関銃を担当した。 部品はボイラー用のプレートおよび農業器材と偽装され、船で輸送された後、「Pansarvagn försöksmodell/1922」の型式を与えられた後、改めて、「Stridsvagn m/21」(略称Strv. m/21)としてスウェーデンで組み立てられた。Strv. m/21は、回転砲塔に「Ksp m/14 6.5 mm軽機関銃」1挺を装備した(車体の機関銃は追加装備可能)。 1923年、スウェーデンは状態の悪い中古のルノー FT-17を1両購入し、車両はすぐに廃棄されたが、取り外したピュトーSA18 37 ㎜戦車砲が、Strv. m/21の1つに搭載され、テストされた。 1920年代後半、スウェーデンのペテルソン&オールセン社が経営危機に陥った際、ドイツ資本が多額の出資をして経営権を掌握し、1928年に社名をランツヴェルク社に変更した。ドイツはランツヴェルク社の主要株主となり、オットー・メルケル(Otto Merker)を主任設計技師の地位に就け、ドイツ国内で禁止されていた戦車開発を、スウェーデン国内で行った。 1928年、Strv. m/21がますます時代遅れになっていく中、スウェーデンで新しい戦車を取得するプロジェクトが始まった。 フランスからルノーNC27軽戦車の試作型1両が購入されたが、スウェーデンの条件には適さないと考えられた。これは現在、世界に唯一残っているルノーNC27であり、アルセナーレン戦車博物館で見ることができる。 結果、フランスの戦車を購入する代わりに、Strv. m/21をアップグレードすることになった。 1929年、Strv. m/21の内5両が発展型の「Stridsvagn m/21-29」(略称Strv. m/21-29)となるべく設計図が起こされ、1930年に2両が、1931年から1934年にかけて3両が、ランツヴェルク社によって改修された。 Strv. m/21-29は回転砲塔に機関銃1挺(車体の機関銃は追加装備可能)を搭載し、スカニア=ヴァビス(Scania-Vabis)社製 85 hpエンジンで駆動された。エンジン始動用に、内部クランクハンドルと電動スターターが追加された。また、車内に電気照明も追加された(それまではオイルランプだった)。 改修された戦車の内1両にハインツ・グデーリアンが搭乗し、操縦している。これは1929年に行われたスウェーデンへの訪問でのことであった。 1930年、シュコダ 37 mm歩兵砲が、Strv. m/21の1つに搭載され、テストされたが、失敗した。 1930年代初頭に、Strv. m/21-29の更新用として、カーデン・ロイド豆戦車 Mk.V*とMk.VIの、計2輌を試験用に輸入。結果、不採用。 1931年、ランツヴェルク社は、Strv. m/31(L-10)を開発・生産した。これはスウェーデンで開発・生産された最初の戦車となった。 1938年、チェコスロバキアのČKD社のAH-IV豆戦車の購入により、Strv. m/21-29の軍務は終了した。
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