相良藩の藩政とは? わかりやすく解説

相良藩の藩政

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 00:56 UTC 版)

田沼意次」の記事における「相良藩の藩政」の解説

田沼意次御側御用取次であった宝暦8年1758年)に第9代将軍家重から呉服橋御門内屋敷与えられるとともに相良1万石の大名となった。この時の相良郡上一揆改易となった本多忠央が前領主であったが、城はなく陣屋みあった明和4年1767年)には第10代将軍家治より神田橋御門内屋敷与えられ(この時から「神田橋様」と呼ばれることとなった)、さらに築城許可され城主格となった翌年から相良城建設始め完成まで11年間の月日要した。意次は普請工事家老井上伊織全て委ね1780年安永9年)の完成合わせて62になった意次は検分名目お国入り果たした。特に天守を築くことを許されており、縄張り北条流軍学者須藤治郎兵衛任せ三重天守閣築いた出世重ねた次の所領最終的に5万7,000石にまで加増された。 意次は江戸定府幕政執務勤めていたため、国元藩政については町方村方統治明確化し、城代・国家老などの藩政担当家臣国元配置した上記築城の他、城下町改造、後に田沼街道相良街道)と呼ばれる東海道藤枝宿から相良に至る分岐路の街道整備相良港の整備助成金出して瓦焼き奨励して火事対策とするなどのインフラに力を注いだ。意次は郡上一揆調査裁定行った経歴から、年貢増徴政策だけでは経済が行き詰まることを知っていたので、家訓年貢増徴戒めており、領内年貢が軽いことから百姓喜んだ逸話残された。殖産興業政策にも取り組み農業では養蚕栽培奨励製塩業助成食糧備蓄制度整備して藩政安定させた。

※この「相良藩の藩政」の解説は、「田沼意次」の解説の一部です。
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