相良藩の藩政
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田沼意次は御側御用取次であった宝暦8年(1758年)に第9代将軍家重から呉服橋御門内に屋敷を与えられるとともに、相良1万石の大名となった。この時の相良は郡上一揆で改易となった本多忠央が前領主であったが、城はなく陣屋のみあった。明和4年(1767年)には第10代将軍家治より神田橋御門内に屋敷を与えられ(この時から「神田橋様」と呼ばれることとなった)、さらに築城を許可されて城主格となった。翌年から相良城の建設を始め、完成までに11年間の月日を要した。意次は普請工事を家老の井上伊織に全て委ね、1780年(安永9年)の完成に合わせて62歳になった意次は検分の名目でお国入りを果たした。特に天守を築くことを許されており、縄張りを北条流軍学者の須藤治郎兵衛に任せ、三重櫓の天守閣を築いた。出世を重ねた意次の所領は最終的に5万7,000石にまで加増された。 意次は江戸定府で幕政の執務に勤めていたため、国元の藩政については町方と村方の統治を明確化し、城代・国家老などの藩政担当家臣を国元に配置した。上記の築城の他、城下町の改造、後に田沼街道(相良街道)と呼ばれる東海道藤枝宿から相良に至る分岐路の街道整備、相良港の整備、助成金を出して瓦焼きを奨励して火事対策とするなどのインフラに力を注いだ。意次は郡上一揆の調査と裁定を行った経歴から、年貢増徴政策だけでは経済が行き詰まることを知っていたので、家訓で年貢増徴を戒めており、領内の年貢が軽いことから百姓が喜んだ逸話が残された。殖産興業政策にも取り組み、農業では養蚕や櫨栽培の奨励、製塩業の助成、食糧の備蓄制度も整備して藩政を安定させた。
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