監察官就任までとは? わかりやすく解説

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監察官就任まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/21 17:14 UTC 版)

クィントゥス・ルタティウス・カトゥルス・カピトリヌス」の記事における「監察官就任まで」の解説

レピドゥスとの戦争が終わると、カピトリヌスポンペイウスに軍の解散命じた。しかしポンペイウス従わずローマ近く自身の軍を駐屯させていた。結局この軍は、ヒスパニア反乱起こしたクィントゥス・セルトリウスとの戦争使われることとなったF. ミュンツァーは、この出来事から見てカピトリヌスは、知的誠実な市民模範であり、元老院の「中道派」の指導者ではあったが、実際に大きな影響力はなく、特にポンペイウス台頭を防ぐことができなかったとしている。 キケロは『神々本性について』の中で、紀元前76年出来事に関してガイウス・アウレリウス・コッタカピトリヌスを「同僚」と呼ばせている。このことから、歴史学者カピトリヌスがポンティフェクス(神祇官)の一員であった考えている。おそらくは両人ともスッラ時代である紀元前80年ころに就任したであろうレピドゥス敗北したが、その後スッラ確立した政治体制解体しようとする試み続きカピトリヌスはこれに抵抗し続けた紀元前75年には、カピトリヌス護民官権限復活させようとした護民官クイントゥス・オピミウスに反対し、紀元前73年には護民官ガイウス・リキニウス・マケルがカピトリヌス激しく非難した紀元前70年執政官となったポンペイウスマルクス・リキニウス・クラッススは、政治形態スッラ以前戻したキケロによればカピトリヌスもこれを認めざるを得なかった。 紀元前73年以前に、カピトリヌス二人ウェスタの処女裁判重要な役割果たしたことが知られている。クラッススリキニウス氏族出身ウェスタの処女を、またルキウス・セルギウス・カティリナキケロの妻の妹であるウェスタの処女のファビアを誘惑したことで告発された。オロシウスによればカティリナは「カピトリヌス支援のおかげで救われた。この事件の詳細不明である。しかし、最高神祇官クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウス不在であったため、カピトリヌス神祇官団の判決指導した。まずファビアに対す投票が、続いてカティリナ対す投票実施された。カティリナ対す評判最悪で、それゆえ有罪判決下される可能性高かった一方、ファビアは良家の娘(ファビウス氏族出身)であり、有罪となれば死刑となることから、神祇官団の同情呼び起こすことができた。結局彼女は無罪とされ、自動的にカティリナ無罪となった。後にカティリナは、カピトリヌスの「言葉では言い表せない友情」について語っている。この裁判門閥派と民衆派との争い一つか、あるいはポンペイウス絡んでいた可能性もある。 紀元前70年には、カピトリヌスはガイウス・ウェッレス弾劾裁判裁判官務めた。ウェッレスはシキリア属州総督時代権力乱用訴えられキケロ主任検察官務めた自身有罪確定的であることを悟ったウェッレスは、判決前に亡命したその後カピトリヌスは、紀元前83年焼失していたカピトリヌスの丘ユピテル神殿修復尽力した。彼がこの工事責任者であったことはマルクス・テレンティウス・ウァロ記録している。紀元前69年神殿はまだ未完成であったが、カピトリヌス神祇官としてこれを奉献した。カピトリヌスというアグノーメンはこのときに得たのである奉献式の際には、カピトリヌス競技会開催したアンミアヌス・マルケリヌスカピトリヌスアエディリス按察官)のときとしているが、これは間違いである。神殿高く見えるようにするために、カピトリヌス神殿周囲の溝を深くようとしたが、地下迷宮があったために実現しなかった。それでも、カピトリヌス建造した神殿は、非常に目立つものであり、フォルムからはそびえ立つように見えた。おそらく、カピトリヌスがエウフラノル作のアテーナー像を置いたのはこの場所と思われる大プリニウスは、これを「カトゥルス・ミネルウァ」と呼んでいる。カピトリヌスまた、神殿屋根金メッキされた青銅葺いたが、神殿完成させるには至らなかった。 紀元前67年には海賊討伐のため、紀元前66年には第三次ミトリダテス戦争のために、ポンペイウスインペリウム軍事指揮権)を与え法律ガビニウス法およびマニリウス法)が成立したが、カピトリヌス何れにも反対した。カッシウス・ディオによればガビニウス法の議論の際、カピトリヌス民会において「もしポンペイウスがこの任務失敗した場合そのような失敗多く戦争、特に海戦はしばし起こっているが、より重要となる任務遂行のため、ポンペイウス以外の誰かを見つけることができるだろうか」と聴衆問いかけた。すると聴衆事前に同意あったかのように「あなただ!」と叫んだ。仮にディオカピトリヌス功績認めてこのように書いたのだとしても、現代の歴史学者には、ポンペイウス支持者カピトリヌス無力化しようとしただけと見るものもいる。 カピトリヌス関与したもう一つ政治的に重要な事件に、ガイウス・コルネリウス裁判がある。コルネリウス紀元前67年護民官であったが、元老院対立していた。紀元前65年コルネリウスは「ローマ市民偉大さ損なわせた」との罪で告訴された。実際には、同僚護民官拒否権発動しにも関わらず論壇自分法案読み続けたことが問題とされたのだ。起訴側にはカピトリヌスメテッルス・ピウスマルクス・テレンティウス・ウァッロ・ルクッルス紀元前73年執政官)、マニウス・アエミリウス・レピドゥス紀元前66年執政官)、弁護側にはキケロがいたが、コルネリウス無罪勝ち取った

※この「監察官就任まで」の解説は、「クィントゥス・ルタティウス・カトゥルス・カピトリヌス」の解説の一部です。
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