監察官就任まで
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「クィントゥス・ルタティウス・カトゥルス・カピトリヌス」の記事における「監察官就任まで」の解説
レピドゥスとの戦争が終わると、カピトリヌスはポンペイウスに軍の解散を命じた。しかしポンペイウスは従わず、ローマ近くに自身の軍を駐屯させていた。結局この軍は、ヒスパニアで反乱を起こしたクィントゥス・セルトリウスとの戦争に使われることとなった。F. ミュンツァーは、この出来事から見てカピトリヌスは、知的で誠実な市民の模範であり、元老院の「中道派」の指導者ではあったが、実際には大きな影響力はなく、特にポンペイウスの台頭を防ぐことができなかったとしている。 キケロは『神々の本性について』の中で、紀元前76年の出来事に関してガイウス・アウレリウス・コッタにカピトリヌスを「同僚」と呼ばせている。このことから、歴史学者はカピトリヌスがポンティフェクス(神祇官)の一員であったと考えている。おそらくは、両人ともスッラ時代である紀元前80年ころに就任したのであろう。 レピドゥスは敗北したが、その後もスッラが確立した政治体制を解体しようとする試みは続き、カピトリヌスはこれに抵抗し続けた。紀元前75年には、カピトリヌスは護民官の権限を復活させようとした護民官クイントゥス・オピミウスに反対し、紀元前73年には護民官ガイウス・リキニウス・マケルがカピトリヌスを激しく非難した。紀元前70年に執政官となったポンペイウスとマルクス・リキニウス・クラッススは、政治形態をスッラ以前に戻した。キケロによれば、カピトリヌスもこれを認めざるを得なかった。 紀元前73年以前に、カピトリヌスが二人のウェスタの処女の裁判で重要な役割を果たしたことが知られている。クラッススはリキニウス氏族出身のウェスタの処女を、またルキウス・セルギウス・カティリナはキケロの妻の妹であるウェスタの処女のファビアを誘惑したことで告発された。オロシウスによれば、カティリナは「カピトリヌスの支援のおかげで」救われた。この事件の詳細は不明である。しかし、最高神祇官クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウスが不在であったため、カピトリヌスが神祇官団の判決を指導した。まずファビアに対する投票が、続いてカティリナに対する投票が実施された。カティリナに対する評判は最悪で、それゆえ有罪判決が下される可能性が高かった。一方、ファビアは良家の娘(ファビウス氏族出身)であり、有罪となれば死刑となることから、神祇官団の同情を呼び起こすことができた。結局彼女は無罪とされ、自動的にカティリナも無罪となった。後にカティリナは、カピトリヌスの「言葉では言い表せない友情」について語っている。この裁判は門閥派と民衆派との争いの一つか、あるいはポンペイウスが絡んでいた可能性もある。 紀元前70年には、カピトリヌスはガイウス・ウェッレス弾劾裁判の裁判官を務めた。ウェッレスはシキリア属州総督時代の権力乱用で訴えられ、キケロが主任検察官を務めた。自身の有罪が確定的であることを悟ったウェッレスは、判決前に亡命した。 その後、カピトリヌスは、紀元前83年に焼失していたカピトリヌスの丘のユピテル神殿の修復に尽力した。彼がこの工事の責任者であったことはマルクス・テレンティウス・ウァロが記録している。紀元前69年、神殿はまだ未完成であったが、カピトリヌスは神祇官としてこれを奉献した。カピトリヌスというアグノーメンはこのときに得たものである。奉献式の際には、カピトリヌスは競技会を開催した。アンミアヌス・マルケリヌスはカピトリヌスがアエディリス(按察官)のときとしているが、これは間違いである。神殿が高く見えるようにするために、カピトリヌスは神殿周囲の溝を深くしようとしたが、地下迷宮があったために実現しなかった。それでも、カピトリヌスが建造した神殿は、非常に目立つものであり、フォルムからはそびえ立つように見えた。おそらく、カピトリヌスがエウフラノル作のアテーナー像を置いたのはこの場所と思われる。大プリニウスは、これを「カトゥルス・ミネルウァ」と呼んでいる。カピトリヌスはまた、神殿の屋根を金メッキされた青銅で葺いたが、神殿を完成させるには至らなかった。 紀元前67年には海賊討伐のため、紀元前66年には第三次ミトリダテス戦争のために、ポンペイウスにインペリウム(軍事指揮権)を与える法律(ガビニウス法およびマニリウス法)が成立したが、カピトリヌスは何れにも反対した。カッシウス・ディオによれば、ガビニウス法の議論の際、カピトリヌスは民会において「もしポンペイウスがこの任務に失敗した場合、そのような失敗は多くの戦争、特に海戦ではしばしば起こっているが、より重要となる任務の遂行のため、ポンペイウス以外の誰かを見つけることができるだろうか」と聴衆に問いかけた。すると聴衆は事前に同意があったかのように「あなただ!」と叫んだ。仮にディオはカピトリヌスの功績を認めてこのように書いたのだとしても、現代の歴史学者には、ポンペイウスの支持者はカピトリヌスを無力化しようとしただけと見るものもいる。 カピトリヌスが関与したもう一つの政治的に重要な事件に、ガイウス・コルネリウス裁判がある。コルネリウスは紀元前67年の護民官であったが、元老院と対立していた。紀元前65年、コルネリウスは「ローマ市民の偉大さを損なわせた」との罪で告訴された。実際には、同僚護民官が拒否権を発動したにも関わらず、論壇で自分の法案を読み続けたことが問題とされたのだ。起訴側にはカピトリヌス、メテッルス・ピウス、マルクス・テレンティウス・ウァッロ・ルクッルス(紀元前73年執政官)、マニウス・アエミリウス・レピドゥス(紀元前66年執政官)、弁護側にはキケロがいたが、コルネリウスは無罪を勝ち取った。
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