田中正造と足尾鉱毒事件とは? わかりやすく解説

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田中正造と足尾鉱毒事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 13:56 UTC 版)

古河機械金属」の記事における「田中正造と足尾鉱毒事件」の解説

幕末には廃鉱同然であった足尾銅山を、古河市兵衛買い取ったのは1877年明治10年)であるが、6年後には製額が買収時の十数になった。しかし、この飛躍的な発展伴って下流渡良瀬川流域農業・漁業大被害現れた。まず、1880年代半ば頃から、渡良瀬川青白色変じた時は、必ずが浮くと言われた。銅山から流れ込む亜硝酸アンモニウムなどによる被害であった1896年明治29年)の大洪水では、群馬県など4県にわたる流域一帯農作物家畜大きな被害与え人体にも影響を及ぼす至った。 これに対し被害地村民は、1897年明治30年以降蓑笠草鞋ばき大挙して上京し数回わたって陳情試みたが、1900年明治33年)には警官隊衝突して数十名が逮捕された。栃木県選出代議士田中正造は、議会政府銅山操業停止迫ったまた、木下尚江らの知識人とともに世論喚起つとめた政府も「鉱毒調査会」を設けて鉱毒予防銅山命じたが、操業停止させなかった。そこで、1901年明治34年)に田中議員辞職し天皇行列直訴試みたが、果たせなかった。 政府1907年明治40年)、被害洪水緩和するために、渡良瀬川利根川合流点に近い栃木県下の谷中村廃村として住民集団移転させ、遊水地にした。しかし、田中はこれを不服とする住民と共に谷中村残り1913年大正2年)に亡くなるまでそこに住んで政府抗議し続けた

※この「田中正造と足尾鉱毒事件」の解説は、「古河機械金属」の解説の一部です。
「田中正造と足尾鉱毒事件」を含む「古河機械金属」の記事については、「古河機械金属」の概要を参照ください。

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