熊襲征伐とは? わかりやすく解説

熊襲征伐

作者神渡良平

収載図書天翔ける日本武尊 上巻
出版社致知出版社
刊行年月2007.7


熊襲征伐

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 05:13 UTC 版)

神功皇后」の記事における「熊襲征伐」の解説

仲哀天皇2年1月11日立后2月天皇と共に角鹿の笥飯宮(けひのみや)へ。3月天皇紀伊国の德勒津宮(ところつのみや)に向かうが皇后角鹿留まる同月天皇熊襲再叛の報を聞き親征開始穴門落ち合うよう連絡を受ける。7月穴門豊浦宮天皇合流仲哀天皇8年天皇と共に筑紫橿日宮移動して神託行い神懸った。託宣内容は「熊襲痩せた国を攻めても意味はない、神に田と船を捧げて海を渡り金銀財宝のある新羅攻めるべし」というものだった天皇はこの神を信じ熊襲攻めた空しく敗走翌年仲哀天皇9年2月天皇橿日宮(現・香椎宮)にて急死『日本書紀』内の異伝や『天書紀』では熊襲の矢が当たったという。 仲哀天皇9年3月1日小山田邑の斎宮武内宿禰審神者として再び神託行い前年託宣した神が撞賢木厳之御魂天疎向津媛命天照大神荒魂)、事代主神住吉三神などであることを確認した。しかしひとまず目の前の熊襲征伐を続行することとなり吉備鴨別派遣して熊襲を従わせた。3月17日皇后自ら峽宮(福岡県筑前町)に移動し20日に層増岐野(そそきの)で羽白という者を討った。そばの人に「熊取って心が安らかになった」と言われたので、そこを安(夜須)という。 3月25日には筑後川下流域山門県に移動して田油津媛という女酋を討ちとり、兄の夏羽戦わずして逃げ出したこの女酋田油津姫は邪馬台国女王末裔とする説もある。いずれにせよ最後まで抵抗していた九州北部ヤマト王権支配下になり、ここにヤマト王権全国制覇完了したとされる

※この「熊襲征伐」の解説は、「神功皇后」の解説の一部です。
「熊襲征伐」を含む「神功皇后」の記事については、「神功皇后」の概要を参照ください。

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