清野事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/29 20:39 UTC 版)
清野は、幼少の頃から考古学を趣味にしており、仕事の傍ら古人骨・古文書・民俗学資料などの収集に情熱を傾けていた。収集するだけでなく古典の筆写も趣味とし、万葉、風土記など日本のものから、孝経、孟子、敦煌写本など中国の古典に至るまで相当数を書写し、それらをみな裝本し、交遊のあった名家に揮毫を求めて鑑賞を楽しんでいた。 清野は「誠に奇妙なる精神状態」のもと収集癖が高じ、京都の古寺から教典や古文書を盗んだ事件が発覚する。清野はその地位もあって京都の寺院に自由に出入りして経典を閲覧していたが、1938年(昭和13年)6月30日、疑いを持った神護寺側の通報から、帰宅途上刑事に尋問され、カバンの中から経典数十点が見つかり窃盗が発覚。教室と自宅からも京都市内の22寺社の経典630巻、さらに教授室から1360点の無断帯出が発見された。なかにはすでに表具され、所蔵寺不明となったものもあった。 清野は逮捕され、控訴審で懲役2年執行猶予5年の有罪判決を受ける。このため清野は京大を免職になったばかりか、濱田耕作京大総長も辞意を表明した。大学は逮捕後直ちに清野を休職処分とし、7月10日から半年間京都刑務所に収監されている間に、人類学での友人でもあった総長濱田の辞職表明、総長選挙途中での文部省の選挙の中止命令、総長選挙取りやめ、その1週間後の7月25日の心労による濱田の急死に至り、京大開学以来のスキャンダル事件に発展、清野は翌1939年(昭和14年)8月1日付をもって辞職となった。
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