治世初期、ヴィエルコポルスカをめぐる戦い(1241年 - 1247年)
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「ボレスワフ2世ロガトカ」の記事における「治世初期、ヴィエルコポルスカをめぐる戦い(1241年 - 1247年)」の解説
ボレスワフは父と違って統治者としての準備を十分に出来ないまま君主の座についた。それは1241年4月9日、モンゴル帝国とのレグニツァの戦いにおいて、父が大公位について僅か3年で戦死したからである。この悲劇的な事件の後、シロンスク公家の5人の息子のうち、長男のボレスワフ2世と次男のミェシュコだけが成人として、摂政をおくことなく統治者になれると見なされた。 しかし、最初の数か月は公国の統治が困難をきわめ、母親のアンナが息子を補佐したと思われる。一部の史料ではアンナが直に公国の摂政となったと述べている。この「摂政」期間は短く、同年中にボレスワフ2世は公式に単独の統治者となったが、その治世は最初から苦難が待ち受けていた。モンゴル人はシロンスクの大部分を制圧した後でハンガリーへと移動していったが、この地域を永続的に支配しようと考えており、この状況はボレスワフ2世にとって楽観できることではなかった。 ボレスワフ2世は父からヴィエルコポルスカ南部とクラクフをも受け継いだが、長子領であるこの地域を狙う他の諸公がすぐに反乱を起こした。マウォポルスカでは、1241年にマゾフシェ公コンラト1世が永久のクラクフ公の地位を主張した。クラクフの行政長官クレメント・ス・ルシュチの組織したマゾフシェ公に対する抵抗運動が功を奏したおかげで、ボレスワフ2世はこの戦争を切り抜けた。しかし暗愚なボレスワフ2世に失望させられた貴族達は、間もなく新たなクラクフ公にボレスワフ5世(純潔公)を選んだ。 ヴィエルコポルスカでの状況も他とさほど変わりなかった。レグニツァでのヘンリク2世戦死の報を聞くとすぐに、プシェミスウ1世とボレスワフ・ポボジュヌィの兄弟は、かつて亡父ヴィエルコポルスカ公ヴワディスワフ・オドニツが領有していた地域を取り戻すことを決意した(父の死後、遺領の大部分をヘンリク2世に奪われていた)。ヴィエルコポルスカの貴族階級及び騎士階級は(年代記作家によれば)この2人を自分達の公国の本来の統治者だと見なしており、彼らの領土奪回運動を熱心に支援した。 この時ボレスワフ2世は戦いを避けるためにヴィエルコポルスカの領土の全てを放棄したが、その補償としてサントクとミェンジジェツの小規模な領地を得た。しかしヴィエルコポルスカの公爵兄弟は非妥協的態度をとり続け、この圧力はシロンスク公家内の不和の原因ともなり始めたため、ボレスワフ2世は補償として得ていた領地を放棄し、1247年にはヴィエルコポルスカに対する要求自体を全面的に取り下げた。
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