治世初期、ヴィエルコポルスカをめぐる戦いとは? わかりやすく解説

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治世初期、ヴィエルコポルスカをめぐる戦い(1241年 - 1247年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/22 08:47 UTC 版)

ボレスワフ2世ロガトカ」の記事における「治世初期、ヴィエルコポルスカをめぐる戦い(1241年 - 1247年)」の解説

ボレスワフは父と違って統治者としての準備十分に出来ないまま君主の座についた。それは1241年4月9日モンゴル帝国とのレグニツァの戦いにおいて、父が大公位について僅か3年戦死したからである。この悲劇的な事件の後シロンスク公家の5人の息子のうち、長男ボレスワフ2世次男ミェシュコだけが成人として、摂政をおくことなく統治者になれると見なされた。 しかし、最初の数か月公国統治が困難をきわめ、母親アンナ息子補佐した思われる一部史料ではアンナ直に公国摂政となった述べている。この「摂政」期間は短く同年中にボレスワフ2世は公式に単独統治者となったが、その治世最初から苦難待ち受けていた。モンゴル人シロンスク大部分制圧した後でハンガリーへと移動していったが、この地域永続的に支配しよう考えており、この状況ボレスワフ2世にとって楽観できることではなかった。 ボレスワフ2世は父からヴィエルコポルスカ南部クラクフをも受け継いだが、長子領であるこの地域を狙う他の諸公がすぐに反乱起こしたマウォポルスカでは、1241年マゾフシェ公コンラト1世永久クラクフ公地位主張したクラクフ行政長官クレメント・ス・ルシュチの組織したマゾフシェ公対す抵抗運動功を奏したおかげでボレスワフ2世はこの戦争切り抜けた。しかし暗愚ボレスワフ2世失望させられ貴族達は、間もなく新たなクラクフ公ボレスワフ5世純潔公)を選んだヴィエルコポルスカでの状況も他とさほど変わりなかった。レグニツァでのヘンリク2世戦死の報を聞くとすぐに、プシェミスウ1世ボレスワフ・ポボジュヌィ兄弟は、かつて亡父ヴィエルコポルスカヴワディスワフ・オドニツ領有していた地域取り戻すことを決意した父の死後遺領大部分ヘンリク2世奪われていた)。ヴィエルコポルスカ貴族階級及び騎士階級は(年代記作家によれば)この2人自分達の公国の本来の統治者だと見なしており、彼らの領土奪回運動熱心に支援した。 この時ボレスワフ2世戦い避けるためにヴィエルコポルスカ領土全て放棄したが、その補償としてサントクとミェンジジェツの小規模な領地得た。しかしヴィエルコポルスカ公爵兄弟は非妥協的態度をとり続け、この圧力シロンスク公家内の不和原因ともなり始めたため、ボレスワフ2世補償として得ていた領地放棄し1247年にはヴィエルコポルスカ対す要求自体全面的に取り下げた

※この「治世初期、ヴィエルコポルスカをめぐる戦い(1241年 - 1247年)」の解説は、「ボレスワフ2世ロガトカ」の解説の一部です。
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