江戸町民による検地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 00:09 UTC 版)
その後、文政年間(1818年-1830年)江戸の町人大久保今助より幕府に対し近江湖辺と川筋の検地を行いたいとの願い出があり、年貢定納を条件に増加分田畑の私有地化が認められ、5尺8寸(約1.76m)を一間とする検地が行われた。大久保今助は水戸藩が行った献金郷士制度により同藩の士分を得たが、徳川斉昭より献金郷士が腐敗の元凶と看做され、天保2年(1831年)水戸藩を致仕した人物である。 徳川家斉の側近から老中となった水野忠成により、瀬田川の川浚いとそれによる琵琶湖水位低下から生じた湖水縁や川筋空地の新田開発が命じられ、水戸藩致仕後の大久保今助が資金提供者として迎え入れられたのが町民検地の実態であった。村人にとり新開場となる湖水縁・川筋は、湿地の泥等は本田の用地や肥やし・葦は屋根材から牛馬の飼料・小魚などの副食を得るための生活の場であった。その様な新開場とされた場所は、低地で耕作には向かない場所であるが、幕府の契約により新開場が今助の私有地にされ利用ができなくなること自体が、村人の生活に大きな影響をもたらすものであった。このため、村や庄屋が今助から買戻しを行うこととなった。買戻しを行った庄屋の中には野洲郡戸田村(現守山市)鵜飼彦四郎(一揆後所払い・闕所となった)がいた。ただし、庄屋や村による買戻しには限界があり、幕府が働きかけ地縁・人縁がある八幡の近江商人に新開場を購入させた。 一時今助の病気から新田開発は中断したが、今助の息子大久保貞之助やその手代与兵衛に引き継がれた。川筋への新田開発に対しては野洲郡・栗太郡・甲賀郡52ヶ村の農民達は奉行所に対して、『凶作が続き不測の事態が出来するかもしれない』『新田により旧田の灌漑に支障を来たす』ことを理由に見分延期を申し入れ、受け入れられた。この時52ヶ村の代表者には後の土川平兵衛や甲賀郡岩根村(現湖南市)庄屋谷口庄内(一揆後所払い・闕所となった)が含まれている。 ただ、検地結果は取り入れられ野洲郡今村(現守山市)では従来石高は600.66石とされていたのが、この検地により260石が新たに算出され、今村の農民の困窮を招いた。幕府は一連の新田開発により琵琶湖一円で2,129.15石を新領として計上でき、この実績が幕府自身による天保の見分に繋がったとも考えられる。
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