江戸時代後期から幕末・明治維新とは? わかりやすく解説

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江戸時代後期から幕末・明治維新

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/07 06:12 UTC 版)

久留米藩」の記事における「江戸時代後期から幕末・明治維新」の解説

第9代藩主・頼徳もまた趣味傾倒して財政悪化させ、天保3年1832年)には亀王組一揆発生している。 天保15年1844年)に第10代藩主となった頼永は藩政改革を図るも病に倒れ弘化3年1846年治世2年夭折する。頼永が改革推進のために起用した有望な若手藩士は、真木保臣影響を受け水戸学天保学)を奉じる天保学連」と呼ばれる人々であり、のちの藩政大きな役割を担うことになる。しかし、頼永の後継者問題契機に「天保学連」は「内同志グループと「外同志グループ分裂し幕末から明治維新にかけて有能な人材消耗することとなる。 詳細は「有馬頼咸#幕末の久留米藩」を参照永の弟である第11藩主・頼咸(慶頼)のもと、久留米藩幕末期迎える。藩政改革を巡る対立や「天保学連」内の抗争幕末期政治課題結びつき激し権力抗争が行われた。嘉永5年1852年)に藩内の尊王攘夷派真木保臣指導する「外同志グループ)が失脚真木保臣蟄居処分を受けるなど尊王攘夷派弾圧された。久留米藩藩論大勢佐幕公武合体派門閥派および「内同志グループ)が占めて不破美作今井栄らが開明路線をとり、筑後川河口部に若津港(現:大川市)を整備して雄飛丸」などの洋式船を買い入れ諸藩でも有数海軍創設している。 しかし、慶応4年1868年)には大政奉還を受ける形で尊王攘夷派復権し、佐幕派首脳排除粛清戊辰戦争が始まると新政府軍側で参戦したしかしながら明治政府の「開国和親路線に不満を持つ久留米藩攘夷派政権は、明治4年1871年)に二卿事件呼ばれるクーデター未遂事件関与し明治政府命令受けた熊本藩に城を占拠されている(久留米藩難事件)。 明治4年1871年7月廃藩置県により久留米藩廃され久留米県となり、同年11月三潴県編入され明治9年1876年福岡県一部となった明治17年1884年)、華族令公布により有馬家当主(頼咸の子)は伯爵となったまた、のちに頼の弟が分家して男爵家創設している。

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「江戸時代後期から幕末・明治維新」を含む「久留米藩」の記事については、「久留米藩」の概要を参照ください。

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